見張塔も敷地の中に建っている。

  • 佐々木敦の『ニッポンの思想』を読了する。この本で佐々木敦は、推理小説のトリックやメタフィクションでお馴染みの、「信用できない語り手」としてある。何故ならこの本は「ニッポンの思想」の語り手たちを、東浩紀の『存在論的、郵便的』から引いた「コンスタティヴ(内容)/パフォーマティヴ(振る舞い)」によって、腑分けしてゆく。「前者に対して後者に圧倒的な重きが置かれてしまうという有様こそが、必ずしも意識的でない場合も含めて、「ニッポンの思想」の特色だと筆者は考えています」と佐々木は述べるわけだが、しかし云うまでもなく、コンスタティヴとパフォーマティヴは分けることができない。もちろん佐々木はそんなことは百も承知で、ちゃんと東の思想を解説してみせる段で、そのことを述べている。しかし、そうであるならば、其処までの佐々木による「ニッポンの思想」を「コンスタティヴ/パフォーマティヴ」で腑分けしてゆくそのパフォーマンスこそが、何だったのか、ということになる。また、この本で佐々木は、書き手としてのみずからの位置を、「「思想」の「変遷」というドラマには直接は参加せず、しかし熱心な「観客」であり続けてきた人間」と定義しているが、云うまでもなく、佐々木敦はみずからを過小評価しているし、そのような超越的な観察者と云うものが存在し得ぬのは、量子力学をうんぬんするまでもないだろう。この本での佐々木を「信用できない語り手」と云う語り手として呼ぶのは、以上のようなふたつのわけから、である。
  • それから、佐々木敦中沢新一を一切評価していないようだが、中沢はそんなに軽く扱って済ませることができる思想家ではないと思うのである(私だって、最近のものは決して熱心に読んでいるとは云わないが、少なくとも『森のバロック』などはもっと高く評価されるべき書物であると断言しておく)。
  • しかし、「テン年代」とは、これからは計算じゃなくて「天然だーい!」という佐々木の希望なのだろう。