『サマーウォーズ』をみる

  • S嬢の寝顔&寝相をカメラで撮ったり(次の日の朝、彼女に見せたら殆ど削除されてしまった)、イチクラさんたちの話を聞いているのにも疲れて、五時過ぎに寝る。
  • ちょっとうとうとと眠ったと思ったら、U君らに起される。風呂を借りる。風呂あがりも、すごく涼しいのがありがたい。
  • KY君の運転する車に乗り、皆で昼飯を食べにゆく。助手席の私は、車の窓から外の風景をカメラで撮るのが愉しくて仕方がない。途中、ヒガシウラさんを拾ってシネコンに行き、細田守の新作『サマーウォーズ』をみる。
  • 些か説教臭すぎる脚本のあちこちや、人物の性格づけが平板なのが少し気になったが、夏休みで、親戚が集まった大きな家(その表現には非常に手こずっていたが)のなかで、ドタバタするだけ(モニタやら電話を介して、電脳空間やら高校野球のTV中継やら混乱する街中などが交錯するが、しかし、家のなかでドタバタする映画であると云うのは些かも揺るがない)のシンプルな映画としては、きわめてよくできていた。だが、そのあたりが「新しい表現」中毒のU君やKY君(「既に『ぼくらのウォーゲーム』と云う傑作があるのだから、もっと破壊しないと!」と、おかんむりだった)には残念だったようだが、115分をクスクス笑って、ちょっとドキドキして、最後にポロポロと泣けるフィルムは、夏休みの映画としては、決して悪くない。私にとって細田守とは、極めて腕利きの職人であり、だから文句があるとするなら、もっとどんどん本数を撮って欲しい、と云うことだけだ。ところで、『時をかける少女』では遂にキャラクタより声優のほうが可愛い時代が来たかぁと感無量だった仲里依紗が今作でも同じ路線(をさらに過激に推し進めて)で声をあてているのだが、すごく巧くて、全然気がつかなかったほど。声優としてこの娘さんは天才じゃないのか? あと、電脳空間の守護神の二頭の鯨の名前が「ジョン&ヨーコ」と云うのは、絶妙すぎて可笑しかった。
  • そのまま映画館の近くのブックオフに寄ってもらい、棚の間をぶらぶら。
  • K神宮の駐車場で一行と別れて、KY君に最寄り駅まで送ってもらい、帰路に。
  • その帰りの電車の中で、時折、猛烈な睡魔に襲われながら、磯崎憲一郎の「終の住処」を読み終える。
  • お話の筋としては、一人の頑張るサラリーマンとその妻、娘、家を巡り、バブル前夜から始まる日本経済小説、なのである。最初から最後まで徹底して、この小説はリアリズムでグイグイ押しとおしてゆくのだが、そのリアリズムの文体と、読み手のなかにある「リアリズムとはこのようなものだ」と想定される文体との微妙な齟齬が、なかなか可笑しい。しかし、ちょっと変なことが起ると、何でもマジックリアリズムですねぇと云えばいいと思ってるのは、単なるアホである*1。この小説は、初めから終わりまで、些かもぶれることがない。生起する物事は常軌を逸していたり、誇張されているが、文体と読み手のリアリズムのズレと云うのは、ずっと保持されたままだし、構成はきわめてカッチリとしている。私は、もっと、どうしようもなく狂っている、やりたい放題をやっている小説だと思ってこの本を手に取った。私は、この小説に、些か期待しすぎていたのだった。残念。。。。。。
  • 帰宅して、晩御飯を食べてから、Skypeで『アラザル』の同人諸氏と座談する。ウーン、チトこれは難しい気がする。対象ではなく、形式が。

*1:http://web.parco-city.com/literaryawards/141/r3_01.html 大森は、翻訳家としてはいい仕事もあるけれど、批評家としては昔からずっと、本当にダメだ。トヨサキさんの読みも、以前に比べると、ギリギリだなあ……。