• 夕方から天満橋。集まりが終わった後、呑み会。いつもよりずっと少ない面子。SFのことに就いて、ずっと喋っていた。愉快。
  • 伊丹十三の『「お葬式」日記』を本棚から引っぱりだして、「日記」(ちなみに、この映画の音楽の担当は湯浅譲二で、彼が出てきて音楽はこのようにしたい、と話すあたりの恰好よさと云ったらない)の最初の日を何気なく読んでいたら、こんなことが書いてあった。「ダメだし」をされることの効用に就いて。

映画に入る前には作るべき映画の姿が見えず、スタッフやキャストに十分なイメージを示しえないのではないかとそれが不安であったが、現場においては監督のイメージというものは多く否定的な形をとるようだ。つまりスタッフやキャストの提示したものにネガティヴな判断をくだしているうち(タバコはハイライトではない。ネクタイの柄が違う。靴下の模様はいらない。腕時計はデジタルではない。このセリフは泣かない。その間が違う。等等)「なになにではないもの」というネガティヴな形で次第にイメージが浮かび上がってくるのである。つまり、監督のイメージというものは同一性の上によりも、むしろ差異性の上に成り立つことのほうが多いのだ。