• 昼過ぎ、蒲団のなかに潜り込んで眠る「しま」と一緒に起きだす。
  • マーク・ブキャナンの『歴史は「べき乗則」で動く』を大変興味ぶかく読み終え、村上一郎の『北一輝論』を読み始める。洗濯物は雨で濡れてしまったのでそのままにして、夕方からアルバイト。
  • 『批評空間』のシンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」のなかで、私のなかで今でもずっと消えずに引っかかり続けているのは、東浩紀の悶えでも福田和也の呻きでも浅田彰のダンディズムでもなく、柄谷行人の次の発言で、それを私は、とても感動的な発言であると、読んでいる。そしてこれは、このシンポジウムに於ける柄谷の発言の総てをそういうふうにとると云うわけではないし、また、柄谷が実際どんな人間であるのかなども、まったくどうでもいい。この発言が、私にとって、素晴らしいのである。何なら、共感する、と云い換えてもいい。

たとえば、僕がこの雑誌を始めたということは、他人と一緒にやるということです。それは、それまでの自分から見ると、できないことだったんですよ。考えもしなかったし、望んでもいなかった。一種の受動的能動性であって、人に誘われているうちに段々そうなっていった、結果的にそれを意志するようになったということですよ。単独で物を書いているのと雑誌を編集するのとはまったく次元が違うわけでね。(……)いろいろな人がいろいろなことを言っていても、それで決裂するのではなく、一緒にやれる次元というのがあると思う。たとえば、僕が『批評空間』に載せているものを支持していると思っている人がいるんですが、違いますよ。読んでない場合が多いんだから(笑)。「これ、どうですか」と聞かれて、「まあいいだろう、載せよう」という感じです。全面的に支持しているわけではない、けれども、支持していないわけでもない。「載せたんだから評価しているはずだ」と思われても、それを引き受けるほかない。