北は、日露戦争を戦って祖国に帰った勇士たちの姿に向って、彼ら貧苦のうちに育ちつつ、一片愛国のこころを抱いて、軍紀・軍律のもとで団結して戦闘に従事した者のみに期待し得る、「強力」の形成を希求しているのである。日露戦争を尊皇攘夷の延長上に見、これを戦ったのは乃木・東郷ではなく無名厖大の兵士であるとしている。凱旋してくるこの力が真に「国の為め」になることを翘望しているのである。もはや民衆は、土百姓・素町人としてあってはならない。土百姓・素町人として強いられて在ったのではならない。それではただパンのためのたたかいしか生まれない。民衆はかく強いられている国家の「表皮」の欺瞞からよびさまされて、内発的に貴族のこころをもたねばならない。志士仁人でなければならない。(……)一種係恋に似た気持で、北はこの「強力」化、革命の核への翻転を希求するのである。
(社稷とは)レーベンスゲマインシャフトというよりもなお広い天地人のいとなみである。支那における国家とは本来、民族国家の謂いではなく、諸侯の分領であり、洲国である。日本でも、日本全体は天下といわれ、国とは諸国、後には藩国の謂いである。社稷とは、たとえ諸侯の国家の境界がどう変化しようが、消滅しようが、厳として存在して動かない人間の団結であり、またその営みである。国はどうあろうとも、天下社稷は動かないのであり、したがって社稷なくして、どんな国家形態も国家装置も考うべくもない。では社稷とは純自然的なものであるかというなら、そうではなく、自然的であるとともにすぐれて社会的歴史的なものでもある。このような社稷という観念について、西洋流に、それでは国家と社会の別が立たないとか、個人と社会の関係はどうなのかといっても、発想が違うのである。個人も社会もともに立ってゆく衣・食・住といういとなみを核に、この観念は成立してゆくのである。
むしろ日本の天皇といえば、古い時代の無権力・無所有の理想が象徴されていたといってよいであろう。しかるにその天皇が、明治の「王政復古」によって、大きな権力者・統治者・統帥者、そして大所有者としての姿をもつに至ったということは、天皇自体にとっての矛盾でなくて何であったろう。天皇のそうなる他ないのが、近代の立憲君主国として日本の国家が立ってゆく上で必要欠くべからざる国体論上の帰結であったとするなら、ここで国体論をもって武装する国家形態、国家装置と、本来の日本人に思い描かれてきた「国の姿」というものは分裂したのである。これはいわゆるネーションとステートとの分裂を集中的に体現したものともいえよう。
- 大江健三郎の『水死』をようやく読み始める。
- 午前十時前になってスターバックスを出て、神保町へ。ぶらぶらとあっちこっちの古本屋を覗き、久しぶりに「キッチン南海」で少し遅い昼を摂ったりしながら、夕方まで。それから銀座に出る。
- メゾンエルメスで、小谷元彦の「Hollow」展*1をみる。
- ギャラリー小柳で、トーマス・ルフ「cassini+zycles」展*2をみる。人間なんぞいなくても、確かに「美」は在るのだと云う、大変さばさばとした心地の良さを得て、それをつくづく目玉で堪能する。
- ポーラ・ミュージアム・アネックスで、川邊りえこ「KO.TO.TA.MA 呼吸する文字」展*3
- ギャラリー360°で「フルクサス:60年代〜70年代のマチューナスがデザインを手がけた印刷物を中心に。」展*4
- 『アラザル』新年会。
- S森君が大江健三郎の『水死』を読んだそうで大変面白かった、と。しかし彼は大江を読むのが初めてなのであると云う。初めて大江を読むひとでも、それを面白かった!とはっきり感じ取ることができるのだと云うのは、もう十数年、古いものも殆ど読み、新しい小説が出るたびに読んできた私にとって、何だかとても新鮮な感想だった。
- KJの歌った銀杏BOYZの《光》、絶品。