スペクトル前夜のオルガン

  • 昼前から柚子の作った弁当を持って、某音大へ。堂山カンタービレ諸氏とC君と共に、K先生からスペクトル楽派の音楽に就いての講義を受ける。当然、彼らはいきなり出てきたわけではなく、スペクトル楽派は過去のクラシック音楽の、近代フランスの音楽のさまざまな試みに繋がっている。それは、オルガンの機構が近代化され、多様になった「ストップ」を効果的に用いて、新しい音響を模索したヴィドールサン=サーンスらに始まり、ラヴェルの《ボレロ》を経て、メシアンの均斉置換*1から影響を受けたブーレーズがトータルセリーを《ストルクチュール第一巻》で発表するが、しかしそれは《第二巻》で既に破綻をきたし、同時代のシュトックハウゼンの思索と実作での探究から、音と時間が結び付けられ、ペンデレツキの羊羹式のクラスターではなく、精緻に記譜することで知覚し得る変化を帯びたクラスターをリゲティは生みだし、シェルシがいて、エリオット・カーターのリズムの考究があり、スティーヴ・ライヒらのミニマリズムが起り……と云うふうな総ての引き継ぎとして、スペクトル楽派が出てくるのである。また、キチンと決まった音でなければ扱えないブーレーズらのセリーは、だから特殊奏法をうまく扱うことはできなかったが、同じ数学的な発想を持つクセナキスのそれはしかし確率論であるため、特殊奏法を取り入れることが可能だった、など、目から鱗の三時間半があっと云う間に過ぎる。
  • K先生と別れ、皆で駅前で駄弁る。MR君と、天皇がおられることの是非に就いて話をする。私はハイデガーの哲学の濃厚な影響下で、天皇と、天皇のおられるシステムを理解していて、そして遂に、それらを残酷であると思いつつ、だからこそ、敬愛している。
  • 私はラッヘンマンの音楽を選び取る。ラッヘンマンのつくる音は、私の身体の裡で鳴る音にとても近しいからである。
  • C君と梅田まで出て、駅前で別れ、私は東通り商店街の古本屋へ閉店ぎりぎりに滑り込んで、棚を漁ってから、帰路に。
  • 駅に着くと、雨がぱらついている。