抜粋と洗濯。

  • 先日読んだ中野重治による、激烈な小林秀雄へのディスである「閏二月二十九日」*1に、小林がアンサーとして書いた「中野重治君へ」が、部屋の隅に積み上げた文庫の山のなかの、『作家の顔』に収められているのを見つけて、さっそく読む。少し引いてみる。

君は僕の真の姿を見てくれていない。君の癇癪が君の眼を曇らせているのである。(……)ただ自分に確かな事は、いつも僕は同じところに止まっている。何処かに出掛けて行っても直ぐ同じところに舞い戻って来る事だ。同じところとは批評が即ち自己証明になる、その逆もまた真、というそういう場所だ。僕はいろいろなものを疑ったり信じたりして来たが、いつも変らず信じていたのは、そういう尋常な批評家の原理だけなのである。(……)僕が反対してきたのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである。この様な立場は批評家として消極的な立場だ。そして僕の批評文はまさしく消極的批評文を出ないのである。いわば常識の立場に立って、常識の深化を企てて来たに過ぎないのだ。(……)自己証明が批評であり、批評は自己証明だという尋常な心構えから、何ゆえ僕の様な否定と疑惑とに満ちた逆説的な批評文が生まれたのか。(……)自己証明などといっても、すでに、確乎たる自己を見失わざるを得ないような状態にある自己の証明を強いられてきたのだ。僕の批評の逆説性は、僕の批評原理が強いられた逆説性を語るものである。(……)
僕等は、専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱に傷ついて来た。混乱を製造しようなどと誰一人思った者はない、混乱を強いられて来たのだ。その点君も同様である。今はこの日本の近代文化の特殊性によって傷ついた僕等の傷を反省すべき時だ。負傷者がお互に争うべき時ではないと思う。

  • 小林秀雄の「地」が、こんなにも露わなのは、ちょっと稀れなのではないか。しかしやはり、互いに信条としているのは、「常識」なのである。それぞれの考える「常識」に就いて、少し考えこむ。
  • きのうからずっとグリゼイの《音響空間》から、《ペリオド》と《パルシエル》を繰り返し聴いている。
  • 洗濯機を廻し、洗濯物を干していると、柚子が帰宅する。カレーの残りを食べてから、アルバイトに。
  • 帰宅して、きのうのすき焼きの残りに饂飩を入れて柚子と食べる。
  • ふと、長木誠司の『前衛音楽の漂流者たち』に収められた、「盗作か、はたまた複数の創作か?」と題されたジャチント・シェルシ論を読む。少し引いておく。

誰もが絶望視したシェルシの病気を、しかしながら、癒すことができたのは、当のシェルシ自身であった。偶然にもサナトリウムの廊下の一角に、古びたピアノが一台打ち捨てられてあったという。不治の宣告を受けていたシェルシは、あるときそのピアノの前に座り、ひとつの音を叩いてみた。そしてその音を何度も繰り返して叩いてみたのである。延々と同じ音を叩き続けるという、偏執狂のようにも見えたこの行為を続けるうち、けれどもシェルシの精神にはしだいに回復の兆しが見え始めた。ひとつの音に含まれる倍音をひたすら追いながら、その音の内側を探り、同時に自己の内部に分け入るというこの〈自己治療〉によって、シェルシの病んだ魂はやがて快癒へと転じたのである。(……)
シェルシという作曲家は、自ら筆を執ることなしに、純粋に聴取のみによって作曲家としての活動が維持できた、希有な例となっているのである。それは戦後の前衛がまずは取り組んだ複雑な作品構造や、エクリチュールの洗練とはもっとも遠い位置にある創作方法だったと言えるだろう。