『アバター』をみる。

  • きょうは残念ながらアルバイトは休み。
  • 夕方から出かけて、モスバーガーで晩御飯を食べてから、ミント神戸で独り、ジェイムズ・キャメロンの『アバター』をみる。云うまでもなく3D版。畏兄南波克行氏*1が日本最速でこの映画をみたひとりだったから、私は日本最遅をめざしていたのだが、きょうみておかないと、どうやら映画館でみられなくなりそうだったので、慌てて出かけた。
  • メガネの上からメガネをかけて、三時間あまりの大スペクタクルを堪能し(冒頭の、地球からパンドラに向かう宇宙船の美しさ! 青い肌の蜥蜴と豹を混ぜたようなヒロインが、どんどん可愛くみえてきて、少し驚く。クラゲのような精霊が、彼女が射んとする矢の上に舞い降りるショットやら、徹頭徹尾キャラクタである彼らに比べるとまったく矮小でしかないかたちでしかない人間の主人公を、ヒロインが抱き上げるショットやら、思わず涙が零れたことは白状しておく)、私はこれをキャメロンの勝利としてではなく、押井守の、そして彼によって夢見られた未来の日本映画の、敗北として記憶することにした。
  • アバター』公開直後、押井守の「完敗」宣言が報じられ、それはまったくの失笑と嘲笑で迎えられ、すぐに忘れ去られた。だが実際、キャメロンに完敗できるのは、世界の映画作家のなかで、私の知る限り、押井守だけだったのだ。なぜなら押井守だけが、キャメロンがこうして「丘の上に一番乗りしてその旗を立て」た、新しい「映画」の姿を、あらかじめはっきりと認識し、それを世界で誰よりも先に撮ろうと奮闘した作家だからだ。
  • さて、1995年から99年の間と思われるが、押井は、或る映画の企画書のなかで、キャメロンの『トゥルーライズ』を「デジタル映画のすすむべき方向に貴重な示唆を与えるものだった」と、次のように評価している。

デジタル合成による異様な設定そのものの追求ではなく、むしろ古典的な娯楽作品にデジタルによる自在感を加えるという方向性を貫徹することで、デジタル効果を説話的行為の内側に組み込み得ることを提示してみせたのである。(……)個々に分解すれば既知の要素だけで構成されており、「ジュラシック−」で恐竜が跋扈する映像とは本質的に異なるものである。空想することは出来ても撮影は困難な(出来たとしても充分な臨場感を確保し得ない、チャチになる)シークエンスを、デジタル技術によって突破するその試みは、間違いなく映画的な思考の結果であり、映画的想像力の逢着する地点を暗示するものと言える。本来、アニメの独壇場だったこの手の表現を自在にこなし得た背景には、キャメロン及び彼のスタッフに相当なアニメ的教養が間違いなく存在していたに違いない。つまり技術に先行した視線の成熟があらかじめ存在し、後は技術の登場を待つのみという制作主体の意識状況が存在していたからこそ、誰ひとりとして体験したことのない状況を的確に演出し得たのである。

  • キャメロンをきわめて正しく評価している押井が、このとき企画していた映画は『G.R.M.』である。
  • 攻殻機動隊』の終了からすぐ、そして『アヴァロン』までの決して短くない時間を、彼はこの映画の実現のために戦い、そして、けっきょく映画は撮られることなく終った。その企画書が、押井の『イノセンス創作ノート』のなかに収められている(押井の発言は総てこの本からの引用)。押井が『G.R.M.』をどのような映画として構想していたのかは、次の文を読めば明らかだが、これを読んで『アバター』を思い起こさないものは、2010年以降は、何処にもいないだろう。

端的に言ってわれわれの目標は、現実の風景や人間を含むあらゆる要素を駆使して、紙の上に描かれないアニメ作品を制作することということになる。(……)
映画という形式に「別世界」の実現を希う観客の願望の具現化。
それは恐らくアニメでも実写でもない「成熟した視線」によって映画そのものとして見つめられてきた映画であり、徹頭徹尾アニメの方法論によって貫徹された実写作品であると同時に、実写映像を含むあらゆる素材を駆使して構成されたアニメ作品であるだろう。
未だ存在せず、見られたことのない「映画」を語ることは難しいが、確実に時代はその「映画」を望んでおり、望まれた以上その「映画」は必ず登場する筈である。それは「映画」の歴史の説くところでもある。

  • そしてその「映画」は、「やがてほぼ完璧な形で登場することになるに違いない。丘の上に一番乗りしてその旗を立てるのは誰か−−そういうレベルの問題に過ぎない」と、押井は書く。ほかにも、この企画書のなかでは、「実在するそれに等しい(あるいは必要充分な)情報量を持ちつつ、しかも映画の内部以外に何の根拠ももたぬ非在の登場人物」のことやらが語られているが(なぜ『アバター』は、殆ど誰も覚えていないような顔の俳優たちばかりで撮られているのか?)、興味のある向きは、押井の書物を読んでいただきたい。
  • きわめて特殊なニッポンのアニメから、世界の映画を新しくつくりかえようとした押井守の試みは、このようにして理論(幻視?)としては確立しながら、十数年を経て、けっきょく押井と因縁浅からぬキャメロンによって実現された。日米映画戦は、米国の圧勝で終ったのである。
  • アバター』は、話の筋が陳腐であるとか、職業軍人がまるで職業軍人にはみえないとか、難癖をつけようと思えば幾らでもつけられるフィルムである。しかし、肝心なのはこの映画が、きわめて周到に、「現実の風景や人間を含むあらゆる要素を駆使して、紙の上に描かれないアニメ作品を制作すること」をめざしてつくられていて、それがきっちりと成功してしまっているということである。
  • 美しいパンドラの森を焼き尽くそうとする直前に、ブリーフィング・ルームに集まった人間たちが、よくこれだけ集めたなあと云うくらい醜悪な面構えのごった煮で、しかしこのショットには、不意撃ちのように、今のアメリカが剥き出しになって映ってしまっているようにみえた。そして、そんな人間たちを追い払い、清く正しく美しいアニメのキャラとして生きることを主人公に選ばせて映画を閉じたジェイムズ・キャメロンは、戦後日本の最後の映画作家のひとりである押井が映画史を学ぶことからつくりだした、日本映画がハリウッド映画に勝つためのテーゼである「すべての映画はアニメになる」を、忠実にハリウッドのど真ん中で実行してみせたわけである。そしてそれはやはり、ひとつの逃避なのであると思う。
  • 押井守を嘲笑うことは、誰にもできない。