すき焼きの夜。

  • 昼、柚子に頼まれてた振込みを郵便局で済ませてから、近所の古本屋の50円棚を漁ってから帰宅する。
  • 夕方からアルバイト。先月まで担当していたお客さんふたりがきてくれていて、少し話をする。
  • 帰宅して、洗濯機を廻す。すき焼きを柚子と食べる。食事のあと、暖房の前でうたた寝している柚子の上に、「しま」がぺたんとくっついて眠っていて、全く可愛い。
  • 夜中に、T内君が電話を呉れる。たいへん心地よく駄弁る。
  • 江藤淳の「「ごっこ」の世界が終るとき」を読んでいるが、きわめて圧倒的。『一族再会』の「母」の章(「言葉と私」)に、この文のなかと殆ど同じ文が出てくる箇所があり、些か昂奮する。江藤にとって政治的な論文というものが、どういう意味を持つものだったかが、よく判るように思う。

達成された自己同一化とは敗者である自己に出逢うことであり、回復された現実と敗北にほかならなかった。われわの運命とは完膚なきまでに叩きつけられた者の運命であり、われわれにとって公的な価値とは敗北した共同体の運命を引き受けるところに生じる価値である。われわれがあれほど渇望し、模索していた自分の正体とは、このようなもの以外ではなかった。(……)自信とか精神というものも、実に敗者である自己と出逢い、敗北した共同体の運命を引き受けるところからしか生れはしない。敗北に出逢うことは屈辱ではない。この事実を勇気をもってになうことからしか、本当に沈着な自信は生れない。政治家は沖縄が還って来るから自信を回復しろという。しかし国家の政策の比重が生存の維持にかかっている以上、かりに自信に似たものが生れてもそれはあの「ごっこ」の世界のなかでの自信にすぎず、他人の視線によってたしかめられなければたちまち崩壊するようなかりそめのものにとどまるだろう。経営者は物質文明の弊害に対処するために、精神的価値を作興しろという。しかし精神作興運動から生れるのは狐つきだけであって、真に個人の内面に生きる精神ではあり得ない。

  • いわゆる自称保守とか自称愛国の連中を、私が大嫌いなのは、つまり、この視点がまるで欠けているからだ。彼らはじぶんたちをいつだって被害者であると位置づける。それは、江藤の云う敗者であることの直視から最も遠い。被害者の視点からしかみずからを語れないとき、それは彼らが蛇蝎の如く嫌う戦後民主主義やら左翼勢力の言葉のあり方と、「ごっこ」であると云うことに於いて、まったく瓜二つである。しばしば、群れつどってデモやら何やらをしているときの両者の顔や姿が、横断幕の文句と掲げている旗以外はまるでそっくりなのは、そういうわけだろう。そして私には、シュプレヒコールで何を云っているかよりも、そちらのほうがより多くのことを語っていると考える。