『ハート・ロッカー』をみる。

  • アラザル』の原稿をようやく何とか書き始めることができた。
  • 123君とSkypeで少し駄弁る。昨日の夜から干した洗濯物を取り込んで、夕方から梅田へ出て、関西を旅行中の『アラザル』同人であるpayumu君と会う。有馬温泉に行ってきた彼から炭酸煎餅を頂戴する。こちらにずっと住んでいると、買って持って行くことはあっても頂くことはないので、何だかとても新鮮だった。彼の四月からの仕事のことや、今後『アラザル』をもっと盛り上げていこう、と云ったことなどを話す。ふたりで古本屋に寄り、大阪駅前で別れる。
  • その後、U君とY嬢と落ち合い、TOHOシネマズ梅田で、キャスリン・ビグローの『ハート・ロッカー』をみる。
  • ハリウッド映画は、9.11とイラク戦争を経て、自己同一性の危機(と、その建てなおし)と自己処罰的な傾向の間で揺れていたが、愈々、しっかりと自己同一性を保証してくれるならば、どんな場所で、みずからがどんな奇妙でいびつなかたち(ラストのショットの、きわめて滑稽な保安官のようなそれに象徴的)を纏うことになろうが、全く構わない!と云う方向へ道を定めたのだな、と思った。
  • 無論、じっとりとするほどの自己同一性をたっぷりと味わうには、むしろ、きわめてホモソーシャルな小さな共同体は好適なのであろうし、その意味で、この映画の性的描写と呼び得るようなものが、命を張った任務を達成したむくつけき男たちが強い酒を呷り、諸肌脱いで取っ組みあう、短くないシークエンスだけであり、決して帰還した兵士とその妻の性交のそれではないのは、きっと偶然ではない。
  • 戦争はクセになるというような、古くからの変わらぬ真理を描いた映画であると云うより、基準を下げるところまで下げてアメリカがぎりぎりのところで自己同一性を保とうとしている姿を描いているとみるべきであり、そうであるなら、醜いが必死の足掻きを続けるアメリカなどさっさと棄てて、二次元の世界で清く正しく美しく生きることを選んだ『アバター』が、今後、使いようによってはこれからのアメリカ=映画に貢献することも考えられる技術的な達成以外ではアカデミー賞を与えられなかったのは、当然なのだろう。
  • 主人公のジェレミー・レナーはいい役者だった(ちょっと友達の映画監督のH氏に似ている)。途中で出てくるPMCのリーダーが何処かでみた男前だと思ったら、レイフ・ファインズだった。
  • きょうは実家へ帰るU君と同じ電車に乗って、ぽつぽつと駄弁る。無論、『罪神』のこと、『罪神』のこと……。
  • 江藤淳の「"戦後"知識人の破産」を読んでいる。昭和55(1980)年に「一九四六年憲法その拘束」を書いたちょうど十年前、つまり昭和45(1970)年に江藤は「「ごっこ」の世界が終るとき」を書き、そのさらに十年前、ちょうど60年安保闘争終結直後に書いたのが、これである。本としての『一九四六年憲法その拘束』は、これらが新しいものから順番に並べてあり、江藤の自信がうかがえる。