- 起きて、洗濯物を取り込む。
- それから、自室で(居間のTVは壊れて色が狂ってしまった)、トリュフォーの『緑色の部屋』をヴィデオでみる。ずいぶん以前から、ずっとみなければと思いつつ、やっと。
- ネストール・アルメンドロスのキャメラの素晴らしさ。階段の途中の壁に、一枚の大きな鏡をかけることで得られる、ねじれた空間のつくりに感心する。階段の上下をひとつの画面に納めるというのはとても難しいことだと思うのだが、その解答のひとつとして、きわめて見事。
- ナタリー・バイが一本の蝋燭に火を点し、今、ついに死者の側へ移り住んだ男の名前をちいさく呟く。その瞬間をみて(聴いて)、思わず涙が零れる。しかし、「じゃあ、私のための蝋燭は誰が点してくれるの?」と云うナタリー・バイの声は、宙吊りにされたまま、この映画は終ってしまうのである。
- 梅田まで出てヴィデオを返却し、そのままとんぼ返りでアルバイトへ。きょうは、風がひどく冷たい。
- 帰宅して、柚子がヒレカツを作ってくれたのを食べながら(美味)、スポーツへの熱狂を担保しているのが「物語」でなく「視覚的な快楽」でもないなら、けっきょく何なのか、と云うようなことを執拗に彼女に問うてしまう。食事のときにするような話ではなかった。
- じぶんの不勉強を棚上げして云うなら、いわゆる「フレンチ・セオリー」の哲学が隔靴掻痒なのは、やはり彼らが、ドイツ観念論をきちんと勉強しなかったからなのではないか? 無論、私が哲学や思想に親しむようになったのは彼らの盛んな営為(と、その日本での紹介)があったからこそなのだけれど、この頃ヘーゲルを中心にずっと読み続けていて、愈々「これだ!」と確かな感じがしているのも事実。