『ザ・タウン』をみる

  • 夕方から隣町のシネコンへ出かけて、ベン・アフレックの『ザ・タウン』をみる。三度の派手な銃撃戦(銃それぞれの音がちゃんと違うのが素晴らしい)と激しい舞踏のようなカーチェイス、無精髭の男たちの苦すぎる面構え、白いシャツのレベッカ・ホールとビッチ風味なブレイク・ライヴリー、時折はっとするようなタイミングで画面の一隅を占める子供に、すっかり心が洗われる。最近たびたび、チャイルディッシュな振る舞いや欲望を断念するのではなく保持したまま生きてゆくことを肯定する映画をみていたので、それらにすっかり辟易していたからというのもあるだろう。腐れ縁の網の目のなかで生きることの心地よさとキツさ、外へ出てゆくことの希望と苦悶が丁寧に描かれ(監督と主演のふたつを担ったベン・アフレックは大したものだ)、同時に、細部まできっちりと作りこまれた(例えば、最初の銀行強盗での一連の「仕事」のあれこれ、最後の襲撃での金庫室を開けさせるときの台詞など、きっとこれから何度もパクられるだろう)、かなりいい映画だった。音楽が、もうちょっと面白ければよかったなあと思うくらい。撮影は、PTAの諸作でお馴染みのロバート・エルスウィットだった。
  • 銃撃戦を、私が、とても好きなのはなぜだろうと考える。もちろん、最初は銃器へのフェティッシュだろう。それ以外では?
  • 映画とは、けっきょく、別々の速さ(原理)で動いているもの同士の衝突(または、すれ違い)に尽きる。または、それらの間の距離の変化である。このことは、映画が音を獲得してから(無理矢理くっつけられてから?)、さらにはっきりと目立つようになった。
  • そして銃とは、或るものと或るものの現在の位置を変えないままで、不可視の速さで飛び出す銃弾が、その間隔だけを一気に縮めて、関係性さえ変えてしまうのである。時間と空間の固有性に、まさに一撃で大穴を空けるのが銃なのだ。ナイフでの刺殺や剣戟の場合では、必ず、もの同士は接触していなければならず、銃撃戦でのような、時間と空間の一気の飛び越えは起らない。だから映画に於ける銃とは、カットを割るということや、編集するということと直結していて、それは、他のどんな乗り物より映画では自動車が、特権的に愛されたヴィークルであることと繋がっているだろう(つまり、カーチェイスというのは、銃撃戦と舞踏のアマルガムで、人間が銃弾のなかに入ってすっ飛んでいるのである)。
  • 映画が気持ちよかったので(H監督がマイケル・マンの『ヒート』より断然好きだとツイートしていたけれど、同感)、久しぶりにパンフでも買おうかと立ち寄った、売店の売り娘のつっけんどんな態度に大変むかつく(パンフの見本を一冊置くようにしたらどうだ。ミント神戸のOSシネマズはそうしているぞ)。映画館の外へ出ると、雨が降っている。傘を持って出てこなかったので、肩を濡らして帰る。風呂に入り、雨が止んでいたので、自転車を漕いでアルバイトへ。
  • 仕事が終って出てくると、大粒の雨が盛んに降っている。傘を挿して自転車を漕ぎ、家に帰る。
  • 「しま」のごはんにおかかをちょっとふりかけて、それから柚子と、あんかけの揚げ麺を食べる。