『お家をさがそう』をみる

  • 昼から雨が降るというので慌ててベランダの洗濯物を取り込む。雨は、ぱらぱらと降り始め、暫くするとやんでしまう。午後から、傘を持って家を出る。近所の公園の桜は満開で、さっきの雨に濡れて黒々としたアスファルトのおもてを、落ちた花弁が覆って白くなっている。新開地へ出て、元町まで古本屋をぶらぶら。そのなかの一軒で、傘を忘れる。そのまま、アルバイトへ。
  • 雨は降らないままで、アルバイトを終えてから元町のシネ・リーブル神戸で、サム・メンデスの『お家をさがそう』*1をみる。しみじみと感じるところの多い映画だった。
  • 今はなき三番街シネマで、『ロード・トゥ・パーディション』の開巻すぐ、冬の街角で少年の漕ぐ自転車を真横から追う、滑らかなキャメラの移動をみていきなり滂沱してからずっと、サム・メンデスは私にとって特別な映画の作り手のひとりなのであるけれど、先日、撮影監督にハリス・サヴィデスを擁しておきながら、とても自動車の撮り方が雑だった『SOMEWHERE』をみたばかりなので、このあたりをきちっとしてくれている映画であることがまず、ほんとうに嬉しくなる。
  • この映画の前にサム・メンデスが撮ったのはあの恐怖の傑作『レヴォリューショナリ・ロード』で、あちらが夫婦なるものが持ち堪えられるぎりぎりの限界(ひと匙まちがえると解体する)を探る映画だったとすると、こちらは、夫婦なるものが壊れず持続してゆくのに必要な最低かつ最重要のことを探るための映画である。
  • 映画の終わりで、夫婦は或る場所に辿りつく。そのとき、彼らを捉えるこのキャメラはいったい誰なのかが、気になる。旅をしながら、ずっと他の夫婦の姿をみつめてきた彼らが、今度はじっと、みつめられている。いや、むしろそれは凝視であるというより、寄り添うように見守る視線であると云うべきか。夫婦は今、辿りついたこの場所から、静かに見守られているのである。その視線そのものであり擬態でもあるキャメラは、このとき、溢れるような優しさと歓待ぶりを湛えていて、そのことに私は涙が零れた。
  • 脚本家のひとりは、『レヴォリューショナリ・ロード』と同じく、柚子と一緒にみていて私が映画館から逃げだしたくなった映画の一本である『かいじゅうたちのいるところ』のデイヴ・エガーズ。こいつのことは全然知らないのだが、何だか、とても気になってきた。
  • しかし、あの乳母車のオチのつけかたは、ほんとうに可笑しかった。そういえば以前、妊娠してお腹の大きくなったケイト・ウィンスレットと並んで、サム・メンデスが娘を乗せた乳母車を押して何処かの街角を散歩している姿が写真に撮られていたのをみたことがあるのを思いだす。
  • 帰宅すると零時をまわっていて、柚子は蒲団のなかでうとうとしている。ちょっとだけ話をして、台所に下りて、冷蔵庫からグラタンを取りだして温めて食べる。