夜はひんやりする。

  • 朝は遅くに起きだして、柚子と朝ごはんを食べる。その後、柚子は家の掃除をはじめる。私は洗濯機を廻して、洗濯物をベランダに干す。「しま」がベランダに出たがるので、ほんのちょっと、一緒に外に出て、風にあたっている。
  • ジョナサン・ノットバンベルク交響楽団ストラヴィンスキーを聴いている。《三楽章の交響曲》を、どうでもいいつまらない曲と書いているのを以前みたことがあるけれど、全然そんなことはないのである。
  • 夜、梅田まで出てDVDを数枚借りて、駅前のスーパーで、柚子に頼まれていた買物をして帰る。柚子と晩御飯を食べてから、買ってきたわらび餅もふたりで食べる。それから、風呂掃除をする。
  • 柚子が風呂に入っている間、台所で、アルチュセールの「フォイエルバッハの『哲学的宣言』」を読む。アルチュセールは、ひとは、前のじぶんから一切を「ひきつぐ」ことなくまったく変わることができる、ということをずっと云ってるだけなのではないか。「一人の人間がその関係によってと同様にその断絶によって自己の姿を明らかにするということが真実であれば……」。

マルクスがフォイエルバハと断絶したのであれば、マルクスの青年期の大部分の著作に認められるヘーゲル批判は、それがフォイエルバハ的見地、すなわちのちにマルクスが放棄した見地からなされたかぎりにおいて、不充分で、しかもゆがめられた批判であると、少なくともマルクスの究極的な哲学的前提からは、考えねばならない。(……)にもかかわらず、マルクスの青年期の著作に認められるヘーゲル批判は、ともかくも依然として正しく、したがってこの批判は「ひきつぐ」ことができると素朴に考える傾向が絶えない。(……)フォイエルバハは「エレメント」〔住みか〕を変えはしなかった。ヘーゲルにたいする真のマルクス主義的批判はまさしく、エレメントが変えられたこと、すなわちフォイエルバハがその反抗的な囚われ人としてとどまっていたあの哲学的なプログレマティックが放棄されたことを前提としているのだ。