• 朝ごはんを食べてから看護婦さんが呼びにきてくれたので四階の浴場に行き、看護婦さんに頭と背中を洗ってもらい、片手で剃刀で髭を剃ってから(随分、巧くなった)浴槽に浸かる。火曜のときのような圧倒的な多幸感はなかった。普通に考えればそれはそうなのだが、私にはやはり奇跡のような瞬間を求めてしまう癖がある。
  • 風呂から上がって風に当たっていると、隣の「兵長殿」はきょうも前のおじさんを相手に、文句を云っている。担当のリハビリの先生には思っていることを云えない(一階のリハビリ室でリハビリを受けたくないのだが、「きょうは久しぶりに一階へ降りてみましょうか」と云われたので嫌だと云えなかった)と云っているが、爺さんはこの担当ではない別のリハビリのひとが施術したときに身体の情況を悪くされたと思っているので、けっきょく、おじさん以外には自身の意見を云うことができないのだ。「リハビリはサーヴィス業ですから」と私の担当のIさんは云うが、そうであるなら爺さんがじぶんの言葉を、適切な場所で吐き出さず(サーヴィスを受けず)、吝嗇に溜め込んでいることそのものが、彼の症状の深因なのではないか。総ては言葉なのではないか。どちらにしても、カーテン一枚の間仕切りで、ひたすら梱包材のぷちぷちを指先でひとつずつ潰すみたいな怨嗟のお漏らしをずっと聞かされるのは堪らない。この爺さんの言葉は、ずっとこういうなりをしているのか、年齢や病がそれをこんなかたちに変形してしまったのか? たぶん概ね前者だろうと思いつつ、本を読んでいる。
  • 昼食のあと、私もリハビリに行く。きょうは担当のIさんは休みでもうひとりの先生。生まれてからずっとこの町で暮らしているそうだ。終わって台を下りると、いつの間にか社会体験の中学生がたくさんいて驚く。
  • 丸山眞男は、「歴史的な欧米文化の中にある普遍的な価値を認めることにおいて私は人後に落ちぬつもりです」と語りつつ、同時に「主知的な冷徹なリアリズム」が徹底されているのがよい。だから私は丸山を、戦後最強の「保守」の思想家として読んでいる。