「ウメサオタダオ展」をみる。

  • 朝起きて、きのうの肉じゃがの残りを朝食に摂り、リハビリに。担当のIさんの施術のあと、実習にきている若い専門学校生の男の子が右腕の肘のあたりを少し触る。私の腕を持ち上げるその挙措のおっかなびっくりぶりが、もうまるでIさんとは違っているのだが、それ以上に、まだ若い彼が、Iさんのような経験を積んできたひとのそれと全然違うと感じたのは、言葉がこなれていないことだった。私は仰向けで寝転がっているわけだが、「右腕を上げてみてください」と云われても、どちらに、どういうふうに上げるのかが明示されなければどうすることもできない(「えーと、どっちに?」などと訊ねながら彼の意図を探り、彼からの次の言葉がくるのを待つ)。Iさんの場合だったら、そのあたりがきわめて具体的かつ明瞭で、また、言葉と同時に、軽く手を添えることで指示がクリアにされることもあるので、どういうふうに動かせばよいのかが瞭然としているわけだ。つまり、四肢の運動の恢復をめざして行われているリハビリは身体を対象としているが、少なくとも私程度の症状のものにとっては、その身体とは、言葉で織り成された束のようなものという部分を、とても大きく有しているのだろう。
  • しかし、午前のはやい時間から動き始めるというのはとてもいい。
  • そのまま電車とモノレールを乗り継いで、国立民族学博物館まで出て、あすで終る「ウメサオタダオ展」*1をみる。ノートとカードで頭の中の思考の断片とか思いつきを取りあえずかたちにして掴まえて、それをどんどん組み合わせて組み替えて筋道の思想をつくっていった梅棹忠夫の方法論をどうやって展示に落とし込むか苦心した跡がみられた。戦時中の蒙古探検の折のノートに(特に、鳥の啼き声を五線譜で詳細に記しているのと、ウサギの走る姿をアニメーションの原画のように連続して描いている*2のが)感心する。壁にぐるりと貼り巡らされた年譜をずらずらと読んでゆき、晩年の彼の失明は、朝起きるといきなりだったのを知る。彼と(記録に残っている)対談した人びとの一覧も掲示されていたが、そのなかに丸山眞男の名前はなく、思想家としてのふたりが激突したことがないのをずいぶん残念に思う。本館のほうの写真展「梅棹忠夫の眼」*3もみる。愛らしい写真だった。
  • 太陽の塔」はその後姿に於いて断然傑作となっていると思うが、その背中の後ろに拡がる大きな矩形の広場(万博会期中の「お祭り広場」である)の片隅には、嘗てこの上空を覆っていた、丹下健三磯崎新が苦心した「大屋根」の一部が残されている。その骨組みのあちこちに丸々と膨れた小鳥たちが留って、雨あがりの空の下、滴を振り払うかのように、盛んに啼き交わしている。もしも「大屋根」が解体されずに残ったら、やがて廃墟として地で朽ちるその前に、やはり緑に覆われて、森のようになったのだろうか? 
  • いつもよりずっとひとの流れに気を配りながら梅田を歩いて、古本屋と中古レコード屋をちょっと覗いて、隣町の駅前の和菓子屋で、蓬の麩饅頭をふたつ買って、帰宅する。
  • 柚子が帰宅していたので、ふたりで麩饅頭を食べて、お茶を呑む。
  • 中古レコード屋で、微キズ有ですごく安く売られていたマルク・ミンコフスキのバッハの《ロ短調ミサ》*4をさっそく聴く。これまで聴いたこの曲のどの録音より私には素晴らしい。
  • 柚子と夕食を摂る。「しま」も一緒に、ほんのちょっとだけ鰹節を振りかけたかりかりを食べている。
  • 「May」*5のTさんと電話で少し話をする。Tさんは、小学生のときの私を同級生として知っている唯一の友達である。
  • 零時を過ぎると眠くなる。ふらふらと居間へおりて本を読み始めるがすぐに転寝。ずっと私の足許に「しま」がくっついていて、暖かい。けっきょく朝、柚子がおりてくるまで、其処で眠っていた。