• 昼過ぎ、シアトリカル應典院まで出て、激団しろっとそん*1の『彼女が鎌を下ろすとき』をみる。「future」編をみてから、次の「friend」編の公演まで谷町九丁目の古本屋まで歩いて覗きにゆく。あまりに暑くて劇場に戻る道、「チョコモナカジャンボ」を買って食べる。「future」編より「friend」編のほうがよかった。これをきちんとつくることができているのに、選びきれずに「future」編も上演することで、そのぶんだけ「friend」編がひとの目に触れる機会をじぶんで潰しているのは、やはりこの劇団が若すぎるためか。
  • その後書いた劇評。
  • 激団しろっとそんの『彼女に鎌を下ろすとき。』には、「future」編と「friend」編があり、この順番で、同じ日に続けて両方をみた。
  • 「future」編でも「friend」編でも、冒頭には俳優たちが出てきて、これから芝居が始まること、そのための諸注意などを見物に向かって述べる。
  • このとき、俳優たちは役を演じていない俳優自身としてではなく、既に、演じられている役柄の人物として、言葉を発する。
  • その後、登場人物や、芝居を駆動させるエピソード(卒業式の直後、学校の前で交通事故に遭遇して突然死んでしまった女の子がいて、彼女はそのまま、学校から出られない幽霊になってしまう。彼女をきちんと成仏させるために、下級生の三人組が、彼女と将来を誓った彼氏の行方を捜す)、さらに、幽霊の先輩を成仏させたのち、後輩たち自身も卒業式の日を迎えて……などの諸々の大きなフレームは、「future」編も「friend」編も同じだった(ただし、台詞やシチュエーションなどは、かなり細かく変えられていた)。
  • さて、「future」編では、芝居の主役である後輩たちが、この高校の学生として経験したあれこれを総て、学校のなかにきちんと置いて出ることで終る。幽霊の後輩たちが過不足なしに学校から卒業ができたことで、それが同時に芝居そのものの終りと結びついているのが「future」編なのである。
  • それに対して「friend」編は云わば、幽霊の後輩たちが、きちんと卒業することに失敗する芝居である。後輩たちは、学生として経験したあれこれを、うまく整理したり消化したりして学校に置いて出てくることができないで、そのまま抱え込んだまま、時間切れで学校を出ることになってしまうのである。
  • つまり、残余なしで卒業を済ませてしまうことと芝居の終りが重なっている「future」編に対して、卒業という終りの儀式を終えたのにまだ荷物を抱えたままでいる「friend」編は、うまく終れなかったことをどう処理するのかに就いて、何らかのケリをつけなければ、芝居そのものも終りにすることができないのである。
  • では、どういうふうに「friend」編は終るのか? 
  • それは、私が「future」編より「friend」編のほうが断然よいと思った理由でもあるのだが、その他のどんな方法でもなく、演劇を選ぶことによって終るのである。
  • 「future」編と「friend」編の比較を、少し別の角度から述べてみよう。
  • 成仏した先輩へできるだけ派手で大きな別れの挨拶を送って、どちらにも未練が残らないように、積極的に忘却することで終るのが「future」編であるが「friend」編は、いつまでも先輩を忘れないでいることを選んで終る。
  • 先輩自身を含め、まわりの彼ら皆が望んで先輩は成仏していったのだから、彼女が此岸にいることはできなくなった。しかし、だからと云って、確かに幽霊の先輩がいたことを、卒業式をきっかけに、水へ流すようにさっぱりと忘れてしまうことや、時間をかけてゆっくりと忘れてゆくということを、「friend」編の後輩たちは、よく肯んじることができない。
  • それだから彼らは、成仏していった先輩とは別に、なんどでも先輩を呼び返して、先輩が成仏するまでの間、どんなふうにして彼らと関わり、どんなことが起きて、結論したのかを定着させることを選ぶのだ。つまり、幽霊の先輩と出会ってからじぶんたちの卒業式までの総てを芝居にして、演じることを決めるのである。
  • そうして、「friend」編は、「future」編とは異なり、再び芝居の冒頭に於ける、劇中の登場人物としての挨拶へと接続されることで、演劇による演劇を選ぶまでの演劇として、あちこちいびつだか、勢いがあって気持ちのよい丸をひとつ描いて終る。
  • 芝居が始まる前に、劇中の人物としてではなく俳優たちがゲームの音楽にあわせてダンスを踊るパフォーマンスが置かれていた。顔の表情で何とか取り繕ってみせようとしているが、踊る身体を構成する技術と演出の未熟さの所為で、彼らの身体のままならなさばかりが強調されてしまうダンスだった。まさに、「踊ってみた」というふうなのである。
  • 「friend」編を見終わったとき、これは「踊ってみた」ならぬ「演ってみた」なのではないかと思った。
  • どうして彼らがダンスや他の表現ではなく演劇を選んだのかが、まるで不明瞭なままだったからだ。
  • まだ若い彼らの鬱屈や感性をのびのびと発揮するというだけなら、それが演劇でなければならない理由は全くない(「表現を選ぶことに大層な理由なんて必要なの?」という反論があるかも知れない。もちろん、どの表現をどんなふうに誰が選んでも構わない。熟慮の結果だろうが偶然だろうが、そんなことも何でも構わない。だが、いちど「それ」を選んでしまった限り、どうして他の何かではなく「それ」で表現をするのかを、作り手は、きちんと答える用意をしていなければならないだろうと私は考える)。
  • しかし「friend」編では、彼らがどうして演劇でなければならないのかが、この『彼女に鎌を下ろすとき。』という芝居を丸ごとつかって、かろうじて、回答することができていたと思う。
  • なるほど、粗捜しをすれば欠陥は幾らでも出てくるだろう。しかし、批評とは、一般に考えられているようなダメ出しや粗捜しのための道具ではない。
  • 『彼女に鎌を下ろすとき。』の「future」編を上演することで、激団しろっとそんは、演劇に救われたと思う。