『法と秩序』、『ボクシング・ジム』をみる

  • 映画が終わってから、ワイズマンが登壇して、質疑応答。映画をどう撮っているか、撮りながらどんなことを考えているのかという種類の質問には、言葉を尽くして丁寧に回答しているさまが印象的だった。それは彼が講演のなかで述べた、「私の映画は、判断を観客に委ねるために私の意見を消去しているというようなことはなく、むしろ私の見解というものがはっきりと打ち出されている」ということにも繋がってゆくだろう(これは云うまでもないことだろうが、なるほど総ては相対的である。だが、「この私」の意見は、決して他の何とでも取り替えることのできる意見ではないし、あってはならない)。
  • しかし、『最後の手紙』で撮影がアンゲロプロスと長く仕事ををしているヨルゴス・アルヴァニティスなのはなぜ?との質問には「前から知っていたから」と膠もなく(これはたぶん、一般化できないことだからなのだと思う。ワイズマンはみずからの特殊な経験を徹底して一般化して、後続の映画制作者に使えるものにすることをめざしているのではないか。しかしこの質問者の女性は「ようこそ京都へ」と述べてから質問を始めていたが、観光案内所の方なのだろうか?)、また、映画に関する質問でも、これまでのことではなくて、これからどんなものを撮りたいか?と問われると、「何でも撮りたい」と素っ気ない。
  • それから、若い学生が「世界的に有名な映画監督として全人類にひと言だけメッセージを送ることができたら何と云いますか?」と訊ねた。質疑応答の最初で「3.11のあとを生きる僕ら日本人へのメッセージを」と求めた学生もいいかげんナイーヴすぎると鼻白んだが(なおワイズマンはこの問いには「東電は嘘つきでその対応はキチガイだが、政府や企業がこんなふうになるのは日本だけではない」というようなことを答えた)、これはさらに、なんて愚劣な質問だろうと私は思った。素朴な質問と愚劣な質問というのは全然違っていて、後者はとどのつまり、質問者が質問される側に興味がないのである。年長者の義務として、「失礼なことを訊ねるな」とか「出て行け」とか叫んだほうがよかったかも知れない。だがワイズマンはそれに対して、「こんにちは」と答えたのである。
  • たぶん若い質問者の彼は、愚劣なじぶんの質問に、彼の言葉を借りるなら「世界的に有名な」ワイズマンを巻き込んだことが嬉しくて仕方がなかったろうが、こんなものは街中ですれ違いざまに肩をぶつけたようなもので、何者とも出会うことなんてできていないし、だからそれは対話でも何でもない。
  • 対話に於ける質問というのは、こちらで相手がこういうことを云うだろうと或る程度あたりをつけてから、その予期を踏み台にして、ジャンプするものだろう。つまり、予期という判断をかたちづくるための材料をじぶんで用意しなければならない。それは云い換えるなら、質問される相手が誰かを考えるということで、これはそのひとの軌跡(および、その過去の軌跡から予期される現在地)を考えるということである。その予期を欠いている質問は、ただの当てずっぽうである(なので、まぐれ当たりは否定しない)。質問を投げて、それが予期に対してどういう重なりが、ズレが出てくるかをよく聴き取り、其処からフィードバックされて新しい予期が設定され、次の質問を投げる……これが対話に於ける質問なのだと思う(もちろんこれは、私たちはきわめて複雑な、私たち自身もすっかり把握することが至難である無数の矛盾する相で成り立っているという人間理解の現われである。これは、人間には裏表があるなんていう単純で当然のことではない)。『ボクシング・ジム』でトレーナーが「止まってパンチを打っては駄目だ。常に動き続けながらパンチを打て」と云っていたのを思い出しながら、こう云うもできるだろう。質問とは、常に有責なのである。きついパンチを食らわされることがしばしばあるのが、対話での質問なのである。
  • 柚子と駅前のスーパーで待ち合わせて、帰宅する。