『引き裂かれた交響曲の物語』、『プリズムの色、時間のメカニック』をみる

  • 夕方、洗濯物を取り込んでから京都まで出て、同志社大学でジャクリーヌ・コーの映画をみる。地下鉄をおりてから進むべき道を間違えて、『引き裂かれた交響曲の物語』冒頭の二、三分を見逃す。
  • 『引き裂かれた交響曲の物語』は、リュック・フェラーリの《引き裂かれた交響曲》から抜粋して映像をつけたもので、自転車を漕ぐ女の子のスカートの裾がひらひらと揺れるさま、川辺で服を脱ぐ女の子、色とりどりの傘を挿してふざけあう女の子などの映像の合間に、《引き裂かれた交響曲》の演奏の風景が挿し込まれる。家に帰ってきてから、YouTubeにある倉科カナのクリップ*1の音を消して、CDでフェラーリの《ほとんど何もないのあとで》をかけながらみてみたが、おっぱいが服の下からさあこれからあらわれるぞ、あらわれるぞ!というところで、打楽器とピアノがますます激しく乱打されて、可笑しいくらい絶妙の効果となった。もともとはマウリツィオ・カーゲルのやった実験らしいが、どんな映像にどんな音楽をつけても、まったく合わないということはなくて、たいてい何らかのマリアージュが実現されてしまう。フェラーリの音楽が、くすぐったいような官能性(女(の声)たち)に覆われている音楽であるのは、聴けば誰にだって判ることだが、この映画はそれに安易に寄り添いすぎている。つまり音楽が主で、映像が阿りながらそのあとを付き随っているだけなのである。自転車を漕ぐ女の子のスカートの裾がひらひらするさまをアップで捉えるショットや、草原を転がる干草の丸い大きな塊などには、なるほどグッときたが、それはたぶん単なる私の映画的趣味だろう。しかし唯一、映像が音楽とせめぎあったと思ったのは、濡れた窓ガラスに、女の掌がぴったりと貼りついて、閉じたり開いたりねじったり、手のあらゆる箇所を使って、激しい舞踏をみせるショットである。フェラーリの音楽なしでも、あのショットはとても力強かっただろう。だからこそフェラーリの音楽も、負けじとより耳に届いてきたように思う。映像と音楽の最良のかたちでのマリアージュは、曖昧な了解めいたもののなかにあるのではない。互いが保持している力の惜しみない贈与(の衝突?)からしか生まれない。
  • なるほど、映像と音楽はもともと無関係なものである。しかしだから映画にはけっきょく音楽なんて不要なのだ、映画は本質的に音楽を必要としていないなんて思わない。いちど実現した結婚をどうしてわざわざ破棄してしまうのか。その結婚の可能性を展開することこそが面白いのではないのか?
  • ところで、これは『プリズムの色、時間のメカニック』でもそうだったので、ジャクリーヌ・コーの趣味のようだが、演奏の風景を捉えるとき、奏者の顔に寄って捉えたがるが、むしろ奏者の手と楽器との関係を軸に、奏者が何をしているのかがはっきり判る画面を選択するべきではないか。特に現代音楽の場合は、音だけでは何をしているのかが(どうやって音がつくられているのかが)判らない場合も多いわけだから。
  • 上映のあと、椎名亮輔の司会で、ブリュンヒルデフェラーリとジャクリーヌ・コーが話をする。ひたすらコーが喋り倒す。第二次大戦後のアメリカの実験音楽の作家たちがヨーロッパに背を向けたこと、ラ・モンテ・ヤングのミニマル音楽とライヒやグラスなどの反復音楽をきっちりと区別するべきなどは、なるほどよく考えてみなければならないと思った。しかし、ほんのふた言み言喋っただけで、椎名とコーの紙コップに水を注いでやったりするだけのブリュンヒルデフェラーリばかり私はみていた。
  • 映画としては『プリズムの色、時間のメカニック』のほうがよい。インタヴュを受けるポーリン・オリヴェロスの膝の上に乗ろうとする猫がとても可愛かったのと、いきなり唄い始めるラ・モンテ・ヤングとその妻の相貌(ラ・モンテ・ヤングの《Well Tuned Piano》のCDは安く再発して欲しい) 、テリー・ライリーの穏やかさ、メレディス・モンクのアシスタントの女性のたたずまい、そしてスティーヴ・ライヒの野心満々たるさまが、面白かった。
  • 映画が終わってから、会場で遭遇したI嬢と、近くのモスバーガーで駄弁る。
  • 帰宅すると、柚子は風邪ぎみではやくに眠っている。柚子が呑みたいと云ったので甘酒を温めて寝室まで運ぶ。はやくよくなってくれるといい。しんどかっただろうに晩御飯もつくってくれている。ありがたくいただく。
  • きょうはU君の誕生日で、皆で彼への贈り物をしたのだが、そのお礼のながいながいメールが届く。よい一年になってくれると嬉しい。