花組をみる。実家に行く。

  • 朝から起きて柚子と宝塚まで出る。阪急今津線門戸厄神があり初詣の乗客も多い。最近は年が改まるたびに柚子と宝塚をみているが、これが私の初詣のようなものかも知れないと思う(年明け最初の映画に何を選ぶのかをとても気にするのと同根だろう)。
  • 石田昌也の『復活』は、これまで私がみたかぎりで、石田の最高傑作だと思う。蘭寿とむは、「えっ……」とか「あ……」だけで、あの大きな劇場のすみずみにまで芝居を浸透させるのはやはり大したものだと感心する。蘭乃はなは、月組の『HAMLET!!』のオフィーリアは大変よいと思ったので、『ファントム』では期待していたが、桜乃彩音がどれほど巧かったのかをつくづく知らされたものだった。だが、きょうのは歌も悪くなくて、芝居も大変面白かった。蘭蘭コンビはこれからかなり面白くなるのじゃないだろうかという期待が膨らむ。月野姫花はすごくいいと思ったけれど、この舞台で退団だそうで、残念。華形ひかるも、『うたかたの恋』で名前を覚えたときは、これからするするとトップへの道をひた走るかと思っていたが、その後どうやら屈折やら迷走やらいろいろあったようで、しかしきょう久しぶりにみると、すごくいい芝居をしていて、よかったなあと思った。
  • 宝塚だけではないけれど、或る人物を賢くみせたいがために他の人物を馬鹿に仕立てるというのが私は大嫌いで(そうしたいならちゃんと抜きん出て賢い人物を造型すればよいのである。それができないからと云って、まわりの人物を犠牲にしてよいわけがない。嘘っぱちばかりの舞台や小説でも、その作品を貫くリアリティというものはあるはずなのだ。そういう杜撰なことをしていると、まず損われるのが作品に於けるリアリティである)、宝塚だったら谷正純の芝居を私ができるかぎりみないようにしているのは、彼の作劇に、そのような愚劣な操作のあとがありありと認められるからである。そんなものは男役の美学とは何の関係もない。
  • 石田のきょうの芝居には、そういうところはまるでない。男も女もおなじ程度の賢さと愚かさを持った生き物として描かれる(この原則を守り、かつ、これを徹底的に展開することと舞台の運動そのものを見事に連動させたのが昨年の星組で上演された小柳奈穂子の大傑作『めぐり会いは再び』である)。だから彼らの発する言葉や情念は次々と他人へ受け渡されることで(シームレスな理解(それは殆ど無理解と同じだ)ではなく、誤解されたり否定されたりしながら)、劇は進んでゆく。
  • 石田の歌詞の言葉には色気も仄めかしもまるでないが、それは彼がベタなおやじギャグを多用するのとおなじであり、やはり頻発される彼の下ネタも同様にカラッとしている。しばしば小池修一郎も下ネタをやりたがるが、彼のはどうもベタベタしていて(宝塚版『エリザベート』でのゾフィとその取巻きたちのやり取りなど。あれは「すみれコード」への配慮というより、単に下品なだけだと思う)、私は好きではない。まるで退団公演のような芝居だったが、兎に角すっきりとしていて、充分に満足する。
  • 三木章雄の『カノン』は開幕からぶらさがっている「CANON」の白い電飾がとてもきれい。青っぽい光の舞台が続き、赤い光の舞台がときどき挿し込まれる。蘭寿とむが生贄のようなポーズで人びとに運ばれるのが妙に多かったように思う。それこそ『復活』もそうだが、或る種の被虐っぽいキャラクタを演っても蘭寿とむは光る。
  • 宝塚阪急でケーキを買ってから新年の挨拶へ私の実家まで出る。柚子と私が着いたら、ちょうど母が出勤するところ。『さんまのまんま』をみながら雑煮やお節を食べ、祖母と話をする。父はずっと奥で眠っていた。七時頃、実家を出る。路地を出たところで、祖母が、駅へ向かう私と柚子をいつまでも見送ってくれていた。