『無言歌』をみる。

  • 明治の洋館へのぼんやりとした関心から、飯島洋一の『〈ミシマ〉から〈オウム〉へ』を読み始める。ずっと前に読んだ『王の身体都市』もそうだったが、「私たち日本人には自己がない」というのが飯島の筆にはオブセッションのように取り憑いていて、しかしそれ自体は殆ど充分に批判されることなく論がどんどん進められるので、些か強引過ぎやしないかと、辟易するときもあるのだが、しかしこのオブセッションこそが文を読み進めさせる最大の推進力となっているのも事実。飯島の著作の完成度としてはやはり『建築と破壊』が群を抜いていると思う。
  • 去年の年末は王兵をずっとみていたのだったがそれを終わらせるために、昼から出かけて十三の第七藝術劇場王兵の『無言歌』をみる。
  • 年末からの記憶に繋いで云うなら、『鳳鳴』と『名前のない男』を鍋で煮込んで合わせたような映画である。