『歴史は女で作られる』をみる

  • 海に突き出した無人の突堤のおもてをびっしりと埋めるように、全身の羽根をぷっくりと膨らませて丸くなった海猫の群れが、碁盤の目の上に乗っているみたいな規則正しさで並んで泊っているのを、車窓から眺めた。
  • 元町の病院に寄る。すっかりよくなっている。そのまま九条まで出て、シネ・ヌーヴォマックス・オフュルスの『歴史は女で作られる』をみる。画面の充溢に目を瞠る。命がけのイミテーション。イミテーションにしか真実性は宿らない。諧謔とはこういうもののことを云うのであって、青臭い自意識の匂いをごまかすための消臭剤のことではない。大変満足する。キャメラの動きはとても滑らかで、奇を衒うようなことは何もしないが(もちろんそのようにみえるように完璧に統御されているのに違いない)、横長のシネマスコープの画面のなかで起るあらゆるものの動き(それは垂直の運動を基軸としているが単純な一方向の動きではないのは、冒頭で、いきなり画面の左右で二本のシャンデリアがおりてくることからも判るし、やがて、画面の奥から手前への無数の垂直の動きなどに変奏される)を完璧に捉えて、私たちにみせる。
  • 画面のことを考えながら、ふと、スタンリー・キューブリックは、マックス・オフュルスになりたかったのかもしれないと思った。キューブリックの素晴らしい遺作『アイズ・ワイド・シャット』は云うまでもなくシュニッツラーの短篇「夢小説」を原作としているし、確かツヴァイクも映画にしようとしたことがあったはずである(さらに、まだ若い頃の、彼が好きな映画のリストのなかにオフュルスが入っていた気もする)。残念ながらまだオフュルスをほんの少ししかみていないので、確信をもって云うことはできないが、キューブリックへのオフュルスの影響はとても大きいのではないか?
  • そのまま梅田へ出て、古本屋をぶらぶら。廊下の電球が切れていたので百均で買ってから、帰宅する。