『ダークナイト・ライジング』をみる

  • 夕方から出かけて三宮で柚子と待ち合わせて、モスバーガーで夕飯を済ませてから、ミント神戸のレイトショウで、クリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』をみる。
  • 人民裁判所のしつらえ(窓からの光線の具合とその手前の人民どもの配置、ガラクタを積み重ねた裁判官席のパッチワークっぷりだの被告の坐らされる椅子だの、ダヴィッドの絵をみているかの如くで、兎に角完璧!)だとかトンネルの入り口をみっちりと塞いでいるさまざまな車の山だとか、ところどころで、はっと驚くほど非凡な画面をつくることがノーランにはできるし(そして、そういうものを眺めることは、云うまでもなく映画の体験としてとても大切であると思うし、何よりやはり刺激的だ)、また、非常に素晴らしかった(!)アン・ハサウェイキャットウーマンを筆頭に、役者たちはすごく素敵な芝居をしている。ずたずたに切り裂かれて陽光に淡く照り輝いている星条旗のもとでの殴り合いもよくやった!と思ったが、しかし、やはり残念なのは、この映画には「世界」が宿ることがないことである(ノーランの映画で其処へいちばん近づいたのは『インセプション』だろう)。
  • インセプション』を、ノーランはボルヘスからの影響で入れ子の世界観をつくりたかったからあの映画はあのようになったと述べているひとをみたことがあり、そして、ノーランがそのような模型づくりの意図を持って臨んだのは実際そうなのだろうし、その稠密な細工はなるほど愉快だったが(『アラザル』呑み会で皆でひと晩中「キック」ごっこをやったのを覚えている)、しかし、『インセプション』はそういうちゃちな(と云ってしまおう)ノーランのマニピュレートをはみだすようなものを抱えてしまった(それを、私があの映画を「「夫婦」に就いての映画」だと考える理由である)からこそ、少なくとも私にとってはとても印象に残る、あのような映画になったのだ(そもそも、意図どおりのものがそのまま何のズレもなく仕上がっています、というようなものをみてどうするんだ? そんなものただのマニュアルの確認作業じゃないか?!)。
  • それで『ダークナイト・ライジング』なのだが、たとえば、橋をあんなに、些かの恐怖もなしに落してよいものか? 仮に、最近のスピルバーグだったらもっと、震えがくるような痛みに充ちた画面をつくるのではないか? 『ダークナイト』は、きわめて優秀な模型づくりのマニピュレータのクリストファー・ノーランが見事な仕事をした傑作だと思うが*1、『ダークナイト・ライジング』はそういう器用さとか賢しらさを踏み越えて、次の場所に出なければならない映画だったはずである。しかしシステムやら「社会」の模造に終始し(だからと云ってその拵え物が拵え物らしく小気味よくずっとカチカチ動き続けてくれるというのでもないのである。金融資本主義の描き方もあんなのでいいの?)、彼の箱庭に最後まで「世界」が降ってくることはなかった。ただ、雲間が明るくなる瞬間がしばしばあったのは間違いなく(そしてそれはほぼ、アン・ハサウェイキャットウーマンに関係するのである。たとえば、実際に画面のなかで現前させられた「嵐」より、彼女がクリスチャン・ベイルの耳元で囁く「嵐」のほうが、ずっと、ぞっとするのである)、だからますます残念なのである。
  • そういう意味では、私はあらゆる藝術を、「世界」を一瞬宿すことができる器だと考えているのだろう。私は、「ものすごいものに触れたい」と云う乞食の巡礼なのだ。
  • マリオン・コティヤールの声って、やっぱりいい。