• 朝。柚子を見送り、ゴミを棄ててきて、洗濯機を廻して、その間に、井上郷子の演奏する《バニータ・マーカスのために》を聴いている。この曲の最初のふたつの音の置きかたは、本当に素晴らしいといつも思う。特に、いきなり音楽がはじまってしまって、驚いているような、戸惑っているような、ふたつめの音のありよう(或いは、ひとつめとふたつめの音の「間」)。
  • ところで、洗濯も音楽も、私がしているわけではなくて、プレイヤのボタンを押しているだけ。
  • 先日『キネマ旬報』で沢尻エリカに就いて書いたのだが、そのときあれこれ書き散らかした草稿の一部。けっきょく使わなかったけれど、ちょっと気に入っているので、貼っておく。
  • クローズド・ノート』公開時の舞台挨拶での「別に……」と、『ヘルタースケルター』の間に挟まれた沢尻エリカの仕事のなかで、最もクリティックだったのは、チョコレート・バーのCMだろう。
  • 少年たちがサッカーをしている。ピッチを駆ける彼らのひとりは、なぜか金髪の沢尻エリカで、派手にすっ転ぶ。チームメイトが大丈夫かと訊ねるが、まったくにべもない。ひとりの少年が、「こいつ、腹減るとエリカ様みたいになっちゃうんだ」と、スニッカーズを手渡す。それを頬張ると、仏頂面の沢尻エリカが、たちまち満面の笑みのサッカー少年に戻り、「キミを取り戻せ!」と商品のキャッチコピーがコールされる、というCMだ。
  • ここに、沢尻エリカはいない。ここでの沢尻エリカの肉体(見かけ)とは、何ものかが正しく表徴されていないことの徴だからだ。本当は沢尻エリカではないものが、沢尻エリカによって表徴されてしまっているのだから、このとき沢尻エリカとは、云わば亡霊である。そして、このように沢尻エリカを「間違いの表徴」として扱うのは、この三〇秒のCMだけでなく、ヌードまで披露し、並々ならぬ意欲で取り組んだろう、『ヘルタースケルター』でも同じなのだ。……