• 前回の文学フリマで頒布した『アラザル』の「非日日新聞」の「投書欄」に載せたもの。誤字などは改め、加筆してある。
  • 二〇一三年八月一二日と、末尾に日付のある、蓮實重彦氏と青山真治氏の放談「梱包と野放し」(『ユリイカ』臨時増刊号『小津安二郎』所収)を読んだ。
  • 蓮實氏は「いま日本で出ている映画に関する書物」は「ほとんどが日本映画作家について」で、「日本から発信される外国映画作家論は非常に貧しい」と云う。そして、本を出すということは、「日本映画以外のものをじっくり論じるための、視力と、財力と、それを纏めるための自分が持っているある種の社会的な信頼性を掴まないと」駄目で「それをじっくりやる人がいない。スピルバーグだって結局まともなスピルバーグ論は無い。それは非常に困ったこと」だと続ける。
  • まったく噴飯ものである。
  • この放談の半年前、二〇一三年二月二五日にフィルムアート社から南波克行氏の編著で『スティーブン・スピルバーグ論』が出たばかりで、私はその著者のひとりなのだ。インディペンデントの映画評論家である南波氏は、先の引用で蓮實氏が述べた、本を出すための諸々の「力」を、実際ひとつずつ蓄えて、遂に本邦で最初の、一冊まるごと「まともなスピルバーグ論」という書物を実現させたのである。
  • また、青山氏は、「外国人がよその国の映画について書いたとき、その国の映画が変容し始めるということが起こる気がします。ひとつの運動の狼煙のように」と決めてみせるが、青山氏よ、このときロカルノという「よその国」の空模様ばかり気になっていたらしい貴兄には、われわれの上げた狼煙に、まるで気づかなかったようだ。
  • 蓮實氏はこの放談で、映画が、鈍感で安定したものとして「梱包」されてしまうことへの抵抗を繰り返し語る。まったく同感だ。しかし、蓮實氏が奮起を促す「日本の批評界」とは、「指導教授が勧めない」から外国映画を論じる書き手が出てこないとかいうような場所のことで、それは結局のところ、氏が「いい加減なもの」と揶揄する「大学における映画研究」のことに他ならない。
  • どうやら蓮實氏には、そういう場所との別のところで(ただし、そこと切れてしまうのではなく)インディペンデントに、誰が勧めようが勧めまいが、やりたいからやる、勝手に行われる批評というものを想像できなくなっているようだ。しかし、われわれは、ここにいるのだ。