• 以前、或る本の企画が持ち上がり、その実現のための試作品をつくることになって、田中純の『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』を選んで書評みたいなものを書いたのが出てきたので、貼っておこう。
  • もうすぐ二〇世紀が始まろうとする頃、世界で最初の映画スタジオを建設したのはトーマス・エディソンで、「ブラック・マリア」と呼ばれたそのスタジオは、まるで装甲列車のような、真黒な箱型をしていた。建物のなかも外も真黒だったのは、映画の撮影に必要な大量の光を天窓から導き入れ、それを逃がさないようにするためである。
  • 「ブラック・マリア」でアメリカの映画産業がスタートしたのと同じ頃、先鋭的な建築家たちの多くは、ガラスと鋼鉄による透明な建築の夢に取り憑かれるようになっていた。映画のためにつくられた真黒な箱が「光」を閉じ込めるための建築ならば、では、モダニストたちのつくる透明な建築は、その内側に「闇」を閉じ込めるためのものとなるのだろうか?
  • この本の主題となっているのは、二〇世紀のモダニズム建築の大巨匠ミース・ファン・デル・ローエである。では、なぜこの本は、たとえばル・コルビュジエに就いて書かれた本ではないのか? ミースは、生涯、自身の営みを「建築」ではなく、「バウクンスト(Baukunst)=断てることの術」と呼び続けた。ミースは、他のほとんどの建築家と異なり、建築というものをまったく自明視することができなかったのである。建築というものが、当たり前のように存在しているかにみえる〈図〉の背後には、「その生成に先立ち、それを支える〈地〉があり、この〈地〉は不可視のままにとどまっている」。田中はミースの「本質」を、この「〈図〉と〈地〉の分裂がすみやかに行われず、障害を抱えて滞っている」ところに見出し、彼の建築を精神分析的に問い詰めてゆくのだ。
  • さらに田中は、この本のなかでミースの建築を「疑いようもなく重大で危険でさえある」と述べる。しかしそれは「わずかばかりコミカル」でもあり、「ジャック・タチの『プレイタイム』を連想させるところがある」という。『プレイタイム』とは、ひたすらガラスと鋼鉄の建築をめぐる映画だった。そしてこのタチの映画は、ミースの建築の「コミカルさ」と同じく、「その明るさは、何か途轍もなく暗くおぞましい闇にたちまち反転してしまう」ようなところのある不思議な映画だった。ミース・ファン・デル・ローエは「ぼくの伯父さん」だったのである。
  • モダニズム建築の大巨匠とされているミースだが、ドイツ語のモダン(Modern)とは、「「腐る、かびる」といった意味の動詞」でもある。そしてさらにミース(Mies)とは、「沼地」の意味を持つ言葉だった。この本でも詳細に分析されるミースの傑作、バルセロナ・パヴィリオンやアンビルトのガラスの高層建築は、しばしば明晰でゴージャスな近代建築の粋のように語られてきたが、田中の分析から現れるのは、沼地と腐敗に、いかにして建築を実現するのかで悪戦苦闘し続けた、私たちのみたことのなかったミース像なのである。