『カップルの解剖学』をみる

  • 夕方になってようやくぐずぐすと出かけて、第七藝術劇場でリュック・ムレ&アントニエッタ・ピゾルノの『カップルの解剖学』をみる。ムレが演じている、カネと労働とセックスにちゃんと向き合うことを避けている映画作家の男が、その事実を彼女からつきつけられ、右往左往する。やがて男は、如何にも映画らしく、ぱりっとこの映画を終わらせることで、映画という逃避先だけは何とか無傷のまま確保しようとするが、共同監督の女性と主演女優のふたりから「こんなところで終わらせるのはダメでしょ」と指摘され、映画は続くことになる。面倒で苛々するがしかしさらに問題と向き合うことで解決の糸口を探り、ぎりぎりのところで男女の共同戦線を維持する、というプロセスの開発のためにも映画は使えるということを発見して、映画はカップルのちいさな微笑で、やっと終わる。結構疲れる映画であったが、階段をタイヤのように転げ落ちる銀色のフィルム缶や、フィルム缶が下水溝の横穴にすぱーんと落ち込んでしまうさま、ムレの漕ぐ自転車のずいずい進んでゆくさまだとか、可笑しみと勢いのあるショットもあちこちにあり、とても真面目に作られたコメディ風の佳作だった。
  • ディドロの『絵画について』の一節……「習作の、アカデミーの、学校の、技巧のあのコントラストは、偽物である。それは、もはや自然のなかで起こる所作(アクシオン)なのではなく、準備され、コンパスで測られた所作であり、それが画布の上で演じられるのである。タブローはもはや街路でもなければ、広場や、寺院でもなく、劇場となる。」(「藝術と客体性」を再読したくなった)。