フィオナ・タン、松江泰治、シュトックハウゼンそして一柳慧。

  • 朝、東京駅に着く。雨が少し降っている(その後も傘は買わずに何とか一日やり過ごす)。スターバックスでココアを呑みながらヴェントゥーリの『絵画鑑賞入門』を読みつつiPhoneの電池を溜める。
  • 御徒町まで出て、「燕湯」という銭湯で汗を流す(風呂のなかに共用のシャンプー&リンスとボディソープのボトルが置いてあるが紐で括られている)。風呂を出て、恵比寿まで行き、東京都写真美術館で「フィオナ・タン まなざしの詩学」展(ひとが暮らしのまわりに並べるたわいない「もの」の数々を必ず映すことに顕著なように、まず、親密さがフィオナ・タンの作品には軸としてある。そこから、親密さ(またはその裏返しの疎外)を形成する歴史の蓄積(または消去)に就いて批評的に取り組むことになるのだが、それらの作品群は、とてもしっとりとしていて、美しい。会場に流れるマルコ・ポーロのテクストを読み上げるサウンドトラックと、それを共有するふたつの映像。朗読は映像が異なると、まったく違ったふうに認識される《ディスオリエント》の鋭さ、《プロヴィナンス》でのオランダ絵画の「再演」など面白くみる)、「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」展もみる。岡村の写真は溌剌としていて構図が見事。特にアイルランドの写真が面白かった。
  • ナディッフアパートの「松江泰治 JP-01 SPK」展をみるため雨の恵比寿を歩いていると、呼び止められて顔をあげるとY君がいて、松江展をみてきたとのこと。そのまま彼と松江泰治をみる。パッと見過されることに抗うために強制的な時間を纏って映像作品に化けた写真。それはまだ写真なのかそうでないのか?というようなことを地下の穴倉みたいなギャラリでY君とぼそぼそと話す。
  • Y君の先導でサントリーホールまで出て、開演前にサブウェイでタンドリーチキンのサンドウィッチを食べる。シュトックハウゼンの《暦年》の蘇演と、一柳慧の新作《時の佇い 雅楽のための》を聴く。七〇年代のシュトックハウゼン、ますます好きになる。現代の一柳慧は盛り込みすぎる。それはなぜなのかを含め一柳慧を解き明かす、途中で止まっているアレを早く書きあげねばならないと意を新たにする。
  • サントリーホールの前で佐々木さんと遭遇。TK、KJの両君とも合流して、新宿の「めだか」dhmo君の送別会。なかなか集まれないメンツがぎゅっと集結していて、卓を囲むだけで気持ちが昂る。しかし、23時半には代々木からバスに乗らねばならぬので私は先に出る。しつこい霧吹きのような雨。ギリギリすぎる時間でこれは危ないと思っていると、123君がタクシーを止めてくれて、一緒に乗って見送ってくれる。
  • 大阪まで、いちども起きることなく寝続ける。杉本博司も古本屋も行けなかったが仕方ない。
  • 前を通り過ぎようとした郵便局がちょうど開いた時間だったので通帳の更新をする。
  • 蜻蛉が飛んでいる。秋か?