• 朝起きて風呂に入り、湯船に浸かりながらソルジェニーツィンの短篇「マトリョーナの家」を読み終える。

毎晩、マトリョーナがもう眠りにおち、私一人が机にむかっていると、時たま、ネズミが壁紙のむこうをガサゴソと走りぬけ、その音におおいかぶさるように、一つに溶け合った、絶え間ないゴキブリのざわめきが、まるで遠い海原の潮騒のように、仕切壁のかげから聞えてくるのだった。が、私はその音にも慣れた。その音にはなんの悪意も、偽りもなかったからである。そのガサゴソというざわめきこそ――ゴキブリの生活そのものだったから。

  • ネズミ、ゴキブリ、びっこの猫とマトリョーナ婆さんはひと続きのものとして描かれている。しかしそれはスノビズムの果ての動物化ということではなく、「なんの悪意も、偽りもな」く、「生活そのもの」を生きているひととしてであり、語り手の「私」はそれを諧謔なく全面的に称揚する。
  • 洗濯機を廻して、飯島洋一の『「らしい」建築批判』 も読み終える。美術館やギャラリーが延命するためのコンテンツとして消費されているだけなのに「建築は藝術になった」なんて思い上がっている建築家たちから、コミュニティコミュニティとうるせぇ山崎亮まで軒並罵倒してきた本は、ヤケクソのように絶叫して、倒れこむように、終わる。

安藤忠雄ほどではない、つまり、その他の圧倒的多数の建築家達は、資本主義への異論を一つも唱えないよりは、何かは唱えるべきである。むしろ現在のような過剰な資本主義の一人勝ち状態に於いて、それをただ安穏と許容しているだけの人は、すでに「思考停止状態」だと言われても、仕方がないのである。/だが、それでも実に残念であるが、結局、いくら資本主義を激しく批判しても、最終的な結末は、資本主義の勝利に終わるのである。(……)資本主義とは、ただの空虚だからである。資本主義は、利潤や営利以外には、基本的に何も考えていない。資本は、お金のことしか心配していない。そのように、呆れるほどの空虚に勝てる者など、この世の中にいるはずがない。/したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは――これは絶望的な事実であるが――ただ、それだけなのである。

  • 服部さんと話してからずっと気になっていたことに就いて書かれている、新井紀子の『ロボットは東大に入れるか』を読み始める。「コンピュータが十分に知的になるかどうか、いうのは、つまり、人間が行っている多様な知的判断を式として書けるか、さらに、それを比較的短い時間内に計算できるか、ということなんです」。
  • 柚子が焼いてくれたホットケーキを朝御飯に食べる。
  • 洗濯物を干す。明日から大雨らしく、またベランダの排水口が塞がれて、水浸しになってしまっては困るので、埃やら髪の毛が泥のように絡まったまま乾いてベランダの隅にへばりついているものを箒と塵取で取り除いてゆく。
  • 「しま」のトイレを洗う。
  • アバドペライアシューマンの《ピアノ協奏曲》を聴き、シュタードラー四重奏団のラッヘンマン弦楽四重奏曲集を聴き、《コードウェルのための祝砲》を聴きながら、ぼーっとしている。屡々、ラッヘンマンの音楽を聴くとき、とてもリラックスしているじぶんを感じる。それぞれじぶんのなかに流れている音楽があるとするなら、私の場合はたぶんこういうのなのだろう。