フォートリエ展をみる

  • 朝から出かけて映画もみるつもりだったが、そんなふうにうまく動けるはずもなく、昼過ぎまでぐたぐたと風呂に入って本を読んだり洗濯物を干したりSKEのDVDを眺めたりしたあとで、ようやく出かける。電車の中で老人から、「寒くなりましたね」と声をかけられ、「ほんとうに!」と答える。老人は誰かと話したかったらしく、通路を挟んで向かいの子連れの夫婦と、彼らが下車するまで、ずっと話していた。
  • 環状線の福島駅の脇から延びている商店街にあった古本屋は、もうなくなっていた。それから国立国際美術館まで行き、ジャン・フォートリエ展をみる。きょうしくじると見逃すところだった。会場のいちばん奥で、ポール・モーランがフォートリエと対談している短い映画が流れていて、フォートリエと対照的な画家として、まずシャルダンが挙げられていたが、私にはフォートリエは、とてもシャルダンを引き継いでいるようにみえる。
  • 絵画をみるとき、その厚さがとても気になる。けっきょく鉛筆やら何やらで引かれた線やら、絵の具のぐちゃぐちゃした塊が画布の上に乗っかっているだけなのに、なぜそんなものが私に「何か」をはっきりとみせたり、心を揺すぶったりするのかが、ずっと気になっていることなのだが、印刷では判らないことのひとつが、その絵画の厚みである。表面を絵の具で波打つように構成する画家もいれば、すっきりと薄く均一な面に仕上げる画家もいる。それを確かめることで何が判るのか、よく判らないが、絵画をみるとき、いつもとても気になるのである。
  • さて、回顧展の通例に倣い、フォートリエ展も、展示の空間の入口から出口に向けて、ごく初期のものから晩年の作品が展示されているのだが、その流れのところどころに、塑像が、楔を打ち込むように置かれている。けっして大きなものではないし、フォートリエがその画業のなかで彫刻に取り組んだのは、たった二度のごく短い間だけで、その時期も、長い中断を挟んでいるのだという。しかし、この塑像がとても素晴らしく、この画家の絵を理解するためのヒントとなっている。
  • フォートリエの画面は、初期は、細かな色の表情を丁寧に重ねているが、しかし表面の処理は薄く平たい。油彩はもともとイリュージョンであったのを考えると妥当である。ところが、これが後期のいわゆる「アンフォルメル」のころになってくると、どんどん分厚く、画布の上に、絵の具の塊がこってりと盛り上がるようになってゆく。
  • フォートリエはこのとき、画家であるよりむしろ、彫刻家へと変貌を遂げたのではないか。第二次大戦後に発表された「人質」シリーズと、やはりおなじタイトルを与えられた塑像を交互に眺めていると、画布の表面にべったりと盛られたこのかたちは、原理としては、まず塑像ありきで、これを輪切りにして、そのスライスされたものを画布の上に貼りつけたということなのではないかと、思ったのである。つまりフォートリエの後期の絵画は、CTスキャンのようなものではなかったのか。輪切りにされてしまっているから、それが何であるかは判りにくくなり、抽象化されているかのように映るが、実際のところは、これらはシャルダンの眼に連なる、きわめて具体的なものの表現なのではないか。
  • コレクション展では中西夏之の大きな対の近作に惹きつけられ(まず美しく、そして、さあ考えろ!考えろ!と迫ってくる絵である)、李禹煥はかっこいいし、リチャード・ハミルトンもやはり好きだった。兎をひたすら観察する泉太郎の《ひさしと団扇》も、このひとはいつもとても聡明で、しかも楽しいものをつくる(自嘲や冷笑のくらさが、すぐ隣でぱっくり口を開けているふうもあるけれど)。フォートリエ展の図録を買って(けっきょくフォートリエでいちばん好きだったのは「黒の時代」の作品群だった)、外へ出る。関電ビルの前では反原発の集会をやっている。
  • 古本屋を覗くついでに、ギャラリー白3の岡本マリ展(小さなリボンのかたちをした陶器が幾つも接続されており、それらが宙吊りにされて、くるくると壁面に影を投げている)とギャラリー白の相見節子展(ほつれ、もつれる赤や緑の毛糸のみっしりとした絡まりのような画面。一見どれもおなじようであるが、画面の翳り、明るさがそれぞれまったく異なっている。そうしなければならないのは、なぜなのか?)を覗いてから、SKE48が出る『ミュージックステーション』をみるために帰路。ぴったり二〇時前に帰宅すると、「ほんとに帰ってきた」と柚子が笑う。《12月のカンガルー》はフルコーラスで嬉しくなる。SKEが出ている番組をみるときは、TVに近いところに柚子がぺたんと坐っていると、たいてい私は、彼女の後ろの食卓のほうに坐ってみる。画面から遠くなってしまうが、どうせ録画しているのだから、夜中に独り、かぶりつきで何度もみればよい。柚子の後ろに坐っていると、だらしなくにたにたしている顔をみられなくて済む。