• 夜中に千葉潤の『ショスタコーヴィチ』を引っぱりだしてきて、「ジダーノフシチナ」の章をぱらぱらとめくる。「不意に何者かが、ショスタコーヴィチに紙切れを渡し、「全部ここに書いてあります、ドミトリイ・ドミトリエヴィチ、ただそれを読み上げなさい」と耳打ちした。「そして、私は演壇に上がり、この愚かで誰かがでっちあげた胸のむかつくようなナンセンスを大声で読み上げはじめた。そうだ、私は自分自身を辱めたのだ、私が読み上げたのは"私自身の"スピーチだとみなされたのだ(……)」。ショスタコーヴィチは、「反人民的な音楽」という言葉のあと、とつぜんスピーチを中断し、近視の眼を会場に固定したまま、悲しく頼りない声で次のように語ったという。「私が誠実に作曲し、ありのままに感じている限り、私の音楽が人民に"反する"ことなどありえません。けっきょくは、私自身が、……幾分かでも……人民の一人なのですから」」。
  • 昼まで眠っている。午後からばたばたと準備をして柚子と一緒に私の実家へ行く。その途中、粉雪が舞う。久しぶりに実家でゆっくり話すと、妹が食品添加物の毒の話をすると眼がきらきら輝くアクティヴィストになっていることに気づく。しかし、なるほど彼女の自作のピザはおいしかった。私の家族はどうしようもなく凝り性が多い。雑煮(私の実家でいちばんおいしいものはこれである。あとは、祖母が大きな中華鍋でつくる揚げそばだが、もうつくらないのだろう。祖母は髪を染めるのを少し前にやめて真白である)とお節とつまんで、帰路。夜の空気はますます冷たい。
  • 電車の中で『ニクラス・ルーマン入門』を読んでいる。何でも切れる冷徹な理論をつくるのが目的ではなく、ぐちゃぐちゃした人間のことどもに就いて、ぴたりと即して考えるためこそ、腰をすえた冷静さが必要であることをルーマンは教えているようである。
  • 一年の暦を一枚の紙にまとめたものをみていると、半年なんて気を抜いていると、あっという間であることがよく判る。はやく原稿に取り掛からなければ。