『ブリッジ・オブ・スパイ』をみる

  • 仕事を終えて柚子と待ち合わせてハーバーランドのOSシネマズでスピルバーグの新作『ブリッジ・オブ・スパイ』をようやくみる。
  • 深く感じ入る。スピルバーグはもう四〇年以上映画を撮り続けており、その間ずっと模索し変化し続けているが、今作にはそれがはっきりと確信を以って写し出されている。これまでの深化を引き継ぎながら、こんなにも大胆に新しい映画を撮ることができるのかと驚く。ただの偶然かつ怠慢でしかないが、じぶんが四〇代になって初めてみることができた映画がこれだったのを僥倖とすべきだろうと思う。
  • アメリカをアメリカたらしめる規範とその応用をみせるときスピルバーグの映画で召喚される顔はもちろんトム・ハンクスのそれであり、『ブリッジ・オブ・スパイ』は『プライベート・ライアン2』であると云うこともでき(あのミラー大尉殿に「俺はノルマンディに参加したんだぞ!」と喚く奴が出てくるのが可笑しい)、『ターミナル2』であるということもできるが、今作でのトム・ハンクスの顔が最初にスクリーンに映し出される際の、陰影を刻みまくった大胆なアップには、こうきたか!と。
  • 暗闇の電車の音から始まり、電車の音で終わるこの映画は、そのサウンドでもちろん『シンドラーのリスト』にも繋がっている。以前私が詳述した「光」と「柵」(そして核戦争への恐怖。教室で核戦争の恐怖を伝える映画をみる子供たち(云うまでもなくスピルバーグの幼少期とおなじ年代)のスクリーンからの照り返しを受けた顔のアップのショットはとても親密である)は今作では画面の総てに満ちているが、しかし、これを万能のナイフのように振りかざして新たなスピルバーグ論を進めるなら無粋の極みである。スピルバーグはそれらを既に、この映画の最初の前提として使っているからである。まったくの妄想だが「私の映画に就いて君が書いていたことを総て前面に出してみたよ、それでも君は私の映画に就いて、まだ何か私の知らないことを云えるかい?」とスピルバーグから云われたように思った。そしてそれはもちろんあるのであり、これはたぶん、あまりにも美しく舞う雪(『シンドラーのリスト』や『宇宙戦争』の「灰」と比較せよ)と、あまりにもなまめかしく動く偵察用のカメラと、ガラスと鏡に就いて、そしてつまり絵に就いて(絵で始まり絵で終わる映画でもある)、書くことになるだろう。ずっしりとした宿題を貰った気分である。
  • しかし、「白いおうち」を叩き壊すことや、「白いおうち」への帰郷に失敗し続けるものたちの映画をたくさん撮ってきたスピルバーグが、あんなにも優しい絵を撮る日がくることになるとは……と画面が涙で潤んだ。ミラー大尉の帰郷をようやくスピルバーグは描くことができたのである。もちろん、ソ連のスパイ(演じるマーク・ライランスが見事)の最初の提示がひとつの画面のなかでとても大胆な三幅対を成していたように、その画面は妻と、鏡のなかの妻と、寝台に死んだように横たわる夫のセットで構成されている或るひんやりとした画面であり、これを手放しに大胆な転身などと云うつもりもないのだけれど、しかし、あの画面から確かな慈しみの放射のようなものも感じ取れないでは、批評としては何を云ってもまったくダメだとも思う。
  • とにかく、とても素晴らしかった。
  • 今作ではトーマス・ニューマンが音楽を担当していたが、ジョン・ウィリアムズの映画音楽というのは、ほんとうにスピルバーグの映像にぴったりと寄り添うものなのだなと、今更ながら得心させられた。