• ユタカライナーのバス(2000円)で朝六時半の池袋着。寒い。ガストに入って朝飯。持ってきた宇佐美圭司の本を読んだり、途中まで(まだ序盤)の原稿のプリントアウトを読んで、裏返してもういちど論の筋を整理しながら練り直す。概ね満足。
  • 東京メトロの24時間パスを買って東池袋から庭園美術館へ向かい、クリスチャン・ボルタンスキーの「アニミタス さざめく亡霊たち」展。カラシニコフを持った民兵みたいに、ばかでかいカメラをぶらさげた蛍光ダウンジャケットのババアたちが邸内をシュートしながらうろついている。妃殿下の浴室のバスタブに不気味なものが満たしてあるくらいのことはやっているのかと思ったけれど、邸内は、センサーじかけの音声と、どうでもいいような部屋に影絵と電球が仕込んであるだけ。
  • 庭園美術館のほうが邸内でのアグレッシヴな表現を許さなかったのだろうが(と云ったって別にボルタンスキーも窓ガラスを割りたいとか云ったわけでもないだろうし、ちゃんと話つめてやらせてやれよとは思う)、それにしても音声もちゃちい。どうせやるんだったら黒沢清の『CURE』くらいの強度が欲しい。
  • 別館のギャラリーも、まなざしのヴェールで幾重にも守られているものが巨大な金色のウンコである(違いますよ、あれはエマージェンシー・ジャケットでくるまれた古着の山なんです、というのはパンフを読めばもちろん書いてある)というのは、ここがかつて皇族の私邸だったということなどを考えあわせるとまあまあ面白く、ヴェールをくぐりぬけようとするとき、それを吊るしているワイヤーと金属の輪が発てる擦過音の響きも美しいが、もうひとつのギャラリーでの、藁を敷き詰めた上に背中合わせのスクリーンを立てたインスタレーションは弱すぎる。図録はまだできていないが畠山直哉が撮るそうで、それはみてみたいような気がすると(どういう批評的往還があるのか)、ちょっと思う。
  • 疲れているので肉を食おうとステーキを食う。肉を食べるとほっとする。目黒から恵比寿に行こうとするが地下鉄では遠回りになるので残念ながらJRで切符を買って移動。写真美術館で杉本博司の「ロスト・ヒューマン」展をみる。三階と二階をみてから、図録を買う。
  • まったく個人的な記憶として、杉本は、2005年だったか森美術館で初めて個展をみたときがいちばん圧倒的だった。以降もなるべく機会を捉えてみるようにしているのだが、前からときどき思っていた、杉本は図録でみるほうがずっといい作家になってきているような気がする。現代美術はたいてい、図録でみるより現場でみなければその判断が難しいものだが(アイドルかよ)杉本はむしろ、彼の現場(個展)は図録をつくるための採掘場として存在する、というべきか。展覧会をみたひとたちの数はあまりに少なく、彼らはやがて消えてゆく。では、立派な記録をつくることこそが、美術家としての本懐と考えているような気がする。茶会記をしたためることが主になっているとでも云えばよいか。今回もその思いは変らなかった(図録はしばしば、展示の全体ではなくその一部のクローズアップだけである)。しかし二階の、《仏の海》と《海景五輪塔》と対峙させた展示はよかった。《海景五輪塔》とは、そのなかに自作の《海景》からの一枚をとじこめた光学ガラスのオブジェである。つまり、杉本の自作のふたつの「海」が向き合っている展示なのである。そこには杉本の眼だけしかなく、いかなる広がりもない。互いが互いをみつめあうだけのトートロジーであり、どこへも出てゆくことのない閉じられた空間である。そもそも、この二階の空間を占める《劇場》も《海景》も、或る時間、そこに満ちていた光で満たされている器のような作品である。そこには、或る時間の総ての光があるが、その光がそうであったはずの瞬間ごとのきらめきだけはない。だからこそ、床に落ちる《海景五輪塔》の虹色の光の帯は、ほんとうに美しいものだと思った。これだけは、図録からどうしようもなくこぼれ落ちてしまうものであるからである。それはもちろん何も生まないだろう。作品の周囲を包む大袈裟な闇を払ってしまえば霧散しよう。しかしこの圧倒的な不毛さこそが、杉本の立派な図録を支えている(それもまた不毛、ということもできる)。
  • それから地下で「写真新世紀2016」展をみる。迫鉄平の「剣とサンダル」展は、やりたいこととやれることの提示がばちっと決まっていて、新しいことをはじめるためのステップもちゃんと盛り込んである配分の妙に、今回も感心する。杉本は写真を云わば、一瞬のポーズ(一時停止)と捉えているが、迫の面白さは、写真をポーズではなく、しぐさとして捉えているところである。しぐさとは或る連続である。それは何となくの終わりをもつが、ポーズのような静止とは違う。そのごくわずかな差異を、迫は捉えている。
  • 今回の優秀賞は、どれもそれほどよいと思わなかった。佳作のほうにいい写真が多かったように思ったが、そのどれも柴田敏雄や清水穣が選んでいて、苦笑する。
  • 恵比寿の駅から美術館側へ延びる動く舗道を渡っていたとき、線路の向こうに「本買います」の看板がみえたのを思い出して帰りはそちらの道を通ったら閉店していた。そのまま歩いて山種美術館へ行き、「速水御舟の全貌」展をみる。御舟の絵のすみずみまで神経の行き届いたヌケ感と、精緻だけではないふっくらとしたところのあるその線が好き。青龍堂にも立ち寄って御舟を一点みせてもらう。
  • 恵比寿からまたJRに乗り渋谷。渋谷から地下鉄で表参道へ出て、青山ブックセンター本店で「青山塾第19期ギャラリー展」で畑中宇惟の絵をみる。マティスみたいな色づかい。ういちゃんガンバレ。
  • 表参道から竹橋へ移動して国立近代美術館でトーマス・ルフ展をみる。もう16時だ。ルフはいちばん好きな《NUDE》のシリーズ(なぜ好きかと云えばとてもエロいから)が少なかったのは仕方がないか。金沢も行こうと思っているから、というのもあるが、ルフの作品をカメラやらスマホでばしゃばしゃ撮りまくっているひとの多さに、むしろそっちを眺めているほうが愉しくなってくる(9.11を撮るひとが多かった。古畑奈和があと四分の一世紀ぐらい経ったらこんなふうになるかもしれないというような女性がいた)。これらの美しい作品をトーマス・ルフという個人の名前に収束させるというのが判らないという意見もあるが、それを云い出したら総てはアートになる、いや、正確に云えば、現代はもう疾っくに、そうなっている。美しいものはあふれかえっている。ゴミのように。そうなってしまったのは近代の美術の自己批判の運動がなんだかんだ云っても誠実に遂行された証でもあるだろうが、それだけではとてもつまらないと私は思うし、それをどういうふうに突破してゆくのか、どういう結節点で組み換えてゆくのかが、アートのこれからの仕事なのではないかと思っている。だからやはりむしろ、トーマス・ルフをひとつの固有名として考えることは大事なのであると思っている。
  • 常設を猛スピードでみる。とても贅沢。二階の現代美術のエリアが、トーマス・ルフにあわせて、その周辺の収蔵品を出してきていて、とてもよかった。ゲルハルト・リヒターの若いころの作品をみて、しみじみする。「近代風景〜人と景色、そのまにまに〜」と題された奈良美智のセレクション展は、とても真面目に選ばれていることがよく判る。奈良の作品を私は好きではないが、その理由もきちんと、近代日本美術史に沿って、納得させてくれる。
  • 財布にカネがなくなっていることに気づく。そりゃこれだけ美術館回って図録買ってりゃカネなんかすぐなくなる。慌てて毎日新聞社まで戻ってカネを引き出してきて、ルフの図録を買う。竹橋から九段下へ。武道館へ行く前に飲み物を買おうとコンビニへ寄ろうとすると、その手前のビルに成山画廊が入っていたので、めちゃくちゃ久しぶりに入り、池島康輔「Cerasus」展をみる。巧みな木彫の少女像が数点。
  • いろはすの桃味を買ってから武道館へ。アップアップガールズ(仮)の「日本武道館超決戦 vol.1」をみる。会場に入ると前座のアイドルネッサンスが歌っていた。いわゆる現場はSKEしか知らないので、ちょっと雰囲気が違っているのが如実で、面白い。ライヴは三時間ぶっとおし。長すぎるMCもなく、けったいなゲストもなく、ひたすら曲をバンバンやってゆく。サイリウムの振り方もMIXの入れ方もコールもSKEとは違っていて、些か戸惑うが、アプガのパフォーマンスの熱量にやられて、そんなことはどーでもよくなるし、後半はなんとなくサイリウムの振り方の規則もおぼろげに判ってくる(メンの手の動きにあわせると良さそう)。そして最後は隣の、紫のTシャツをきたカーツ大佐みたいなおっさんと、おっさん同士肩をがっちり組んで右に左に揺れながら、アンコールの《サマービーム!》*1の「らーららららららーらーらー」をでかい声で喚くことになった。とにかく、ど直球で、がっつり密度の濃いパフォーマンスをやってくれるアプガに、ほんとうに興奮させられる。《美女の野獣》みたいなダークな曲をでかい音でバリバリやってくれのも最高だった。SKEの対バンだった前回を除けば、初めてみるライヴなのに、ド新規の私にも、とてもよいライヴだった。不遇をバネにしてジャンプすることはできるぞSKE!と、なぜか最後は栄のことを考えていた。アプガは七人である。今のSKEならアプガを八組ぐらいつくれることになる。しかしそうやってできた八組のそれぞれはアプガとバトルして勝てるか?
  • 東京駅のマクドナルドで晩飯を食って、そのままバスに乗って帰路。翌朝家に帰って最初にしたことは、もうフォローしているあかりん(佐保さん)以外のアプガのメンバーを全員フォローすることだった。