- 年があけたので、だーすーの卓上カレンダーを去年のと交換する。
- 夕方から柚子と出かけて、三宮で土産などを買って実家に。うちのなかの猫は七匹になっていて、いつも足許を猫が歩いている。祖母はたいていずっと寝台の上だが、母に起してもらって食卓で離乳食みたいな夕食を食べると、見事に顔に色艶がでたので驚く。やはり飯を食うというのはとても大きなことなんだなあと思う。
- 父が『必殺!III 裏か表か』をTVでみている。工藤栄一はどうしてほんの断片をみるだけでも、ぐっとくるのだろう。俺は工藤栄一論を書くべきなのだろうか。
- 真夜中にYouTubeが垂れ流すままにAKBとか坂道とかを聴いているが、やっぱりSKEが流れると、一気に盛り上がる。やっぱりSKEは最高だとつくづく思う。SKEはこんなにいいのに、その良さを知っているひとは少なすぎる。YouTubeに、PVや公演動画やらを、フルサイズでアップすればいいのに。もちろんタダでいいのである。それでハマったら私のように絶対カネを使うのだから。乃木坂も今は、PVをショート版に差し替えてしまっている。驕りだと思う。SKEは、いちばんの干されなんだから、いのいちばんに変わることができるグループのはずだ。ぜひやってほしいと思う。
- マイケル・フリードは「藝術と客体性」のなかで、「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」というのは、あらゆる「時代を超え」て無時間的に変らない、絵画というものに共通する「諸条件」ということではなくて、あくまでも「いま現在」、或る絵画があったとして、これが過去の絵画のマスターピースたちとおなじ水準を保っていると、「確信を強要できる」もののことであると書く。
- この「確信を強要するもの」を、フリードは「本質」であると云うのだが、これは「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するものであ」り、「モダニストによる絵画の仕事とは、いま現在その因習だけが、彼の作品のアイデンティティを絵画として確立し得るような、そういった諸因習を発見することなのである」と説く。
- さらにフリードは、モダニズムの絵画に関するこの「確信」、「つまり作品それ自体についてのその人の経験に始まり終わるような確信の正しさもしくは適切さは、常に疑いを免れないものだ」とも書いている。この「常に疑いを免れない」ことが、「確信」を得たと称する美術家や批評家や観者を、彼らだけの経験に自閉させないのである。つまり、「確信」を得られたものは、同時に、「本当にその経験をしたことがあるか否かという問題」に直面させられるのである。それは本当に本物の「恩寵」なのか、狐や狸に化かされているだけなんじゃないかとチェックされるということだ。そしてこれが、批評ということなのである。
- だから、「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するもの」という文のキモは、もちろん「継続的」というところだ。先述のように「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」は時代によって変化する。では何が「継続」されるのか? それはもちろん、「いま現在その因習だけが、彼の作品のアイデンティティを絵画として確立し得るような、そういった諸因習を発見すること」である。それぞれの時代で画家たちが発見する「諸因習」は異なるはずである。しかし、「近い過去の強力な作品」と向き合うことで得られた「諸因習」や「確信」を、妄信するのではなく「常に疑い」つつ「応答」を繰り返してゆくことは、どの時代でも「継続」されなければならない。
- これを「抽象表現主義以降」のグリーンバーグの言葉で云い換えるなら、もちろん「自己−批判」であり、藝術における「価値もしくは質の究極の源泉」であるところの「構想(コンセプション)」ということになる。あるいは「「フォーマリズム」の必要性」では、「維持されたり回復されたりするのは、過去の特定の様式や手法でなく、質の規範、水準なのである。これらの水準は、いちばん最初にそれに達したときと同じ方法で保持できる。つまり、不断の更新と刷新によって」と書かれていることである。
- 西中君とか倉本君の書いている、決意にあふれた年末年始のブログを読んで、俺も頑張らなきゃ……と痛感する。