• 朝から、借りてきたBDで、『レヴェナント』をみる。撮影がルベツキであるだけでなく、プロダクション・デザインもとても見事だと思ったら、ジャック・フィスクだったのを知る。クリストファー・ノーランだけでなく、テレンス・マリックのような崇高を、いちどは撮ってみたくなるものなのだろうか。実際、まるでマリックの映画から抜き出してきたかのような、驚異的に美しい自然の姿を捉えたショットが幾つもある。マリックが、ただ美しいだけでなく、異常に美しく撮られているそれらを必要とするのは、自然を讃えるためではなく、むしろ、人間がその自然から、絶望的に疎外されているさまを浮かび上がらせるためである、ということは以前論じたが(「テレンス・マリックがバンジー・ジャンプする」)、では、イニャリトゥはなぜルベツキという世界最高の撮影監督を使って、これらの映像を必要としたのか?
  • 『レヴェナント』には、キャメラのレンズの存在を具体的に強く意識させるショットが幾つかあるが、そのひとつは舞い散る雪がレンズに貼りついて水滴になっているショットであり、もうひとつは、ディカプリオの吐く息である。極寒のなか、彼の息がレンズを曇らせ、一瞬、画面が白くぼやける。興味ぶかいことに、このショットの次には、高い峰々を這って降りてくる濃霧のショットがあり、さらにそのショットに続くのはディカプリオの息子を殺した仇敵であるトム・ハーディのパイプから吐きだされる煙のそれである。対立するふたりの人間の呼吸のショットのあいだに、自然(これが、この映画のなかでは神を指していることは明らかだろう)の吐く息を挿んで、イニャリトゥは三つの煙で、イメージを繋いでいる。つまり『レヴェナント』では、自然というものもまた、人間の吐きだす息と並置されて、わずかな滞留ののちに流れゆくものというイメージに縮減され、私たちにも交感可能なものとなっている。云い換えればこの映画では、ルベツキによって切り取られた圧倒的な自然のショットは、マリックの映画とは異なり、やがて人間がそれとの和解を描くための、最重要のキャラクタとして、必要とされているのである。自然が人間を包含するのか、人間が自然を人間化するのかは、視点の置きかたの違いに過ぎない。そして、その和解を『レヴェナント』は、人間と自然のそれぞれが、滞留するが流れてゆくものというふるまいを互いに行為しあうことによって、映画として実現する。キャメラのレンズの存在を、煙る息吹によって意識させることもそうだし(ディカプリオが、映画の最後でその双眸を、まっすぐ観客に向けて投げかけるのもおなじことである)、最後の死闘を終えてのちの一連の劇も総て、滞留ののちの流れ去りというふるまいによって貫かれている。
  • あるいは、『レヴェナント』でも、マリックの映画のヒロインたちのように、ディカプリオの妻もまた、宙に浮かぶ。しかしそれはマリックの映画でのように世界そのものへ出てゆくことを告げ知らせるためではなく、これもまた、自然と人間のあいだに、和解の交感を与えるためである。とても美しく、真面目な映画だが、ただ私には残念ながら圧倒的な映画ではなかった。銀幕に比べればちいさなTVでみているから、というのは関係ない。