- 午後遅くから柚子と実家に。三宮でケーキを土産に買う。いつものように祖母の分も。
- 母と妹は梅田に買物に行っていて、父と猫たちがいる。祖母はいつも寝ていたベッドに横たわっているが、しかし顔には白い布を被せられている。掛け蒲団の胸の上には、ときどき猫が蹲っていたが、きょうはドライアイスを入れた水枕が乗っていて、さらに、経帷子も拡げて被せてある。
- 顔の白い布を取ろうと思うが、顎の辺りをちょっと捲っただけで、そのままなおしてしまう。父が、顔の覆いを全部取ってくれる。久しぶりにお化粧をされていて、紅が唇をまっすぐなぞっている。最近は、いつも眠っていたので、そんなことはないのだと知っているけれど、このあと、眼を開けてもおかしくないんじゃないかと思う。
- 父と柚子と三人でケーキを食べる。父が紅茶を淹れてくれる。猫たちと遊ぶ。近所のFさんの家の長女(私よりひとつか二つ年上で、小学生のとき、集団登校のおなじ班だった。会うのは数十年ぶりだと思う)が弔問に来てくれる。やがて、母と妹も帰ってくる。明日の打ち合わせをして、帰る。柚子と三宮のモスバーガーで簡単に夕食を済ませる。帰りの電車のなかで、『なぜ、植物図鑑か』を読み終わる。たぶん、何度も引用されたであろう、「写真とは、映像とは」どのようなものであるかを説いた一節。
現実からその一部を「引用」し、それを再び現実へ挿入すること。この作業によってその限られた現実は疑問符を付された現実に変質し、それが再び現実の総体に投げ返されることによって、今度は逆に現実総体が虚構化される。このサイクルが写真家の表現である。一度、現実へ投げ返された映像は再び第二の現実として他者の「引用」に向かって開かれているのだ。
- 更地になった近所の家の敷地からは、あのふてぶてしく立派な梅の木さえどこかへ持ち去られて、ただの空き地になり、そこに不動産屋の幟が二本、突き立ててあった。