• ペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』を読み終える。面白いので、もういちど頭から読み始める。最近少しずつ批評や論文以外のもの、戯曲だとか小説を読んでいる。映画とおなじで、面白かったものは二度読むと、いろんなことが見えてくる(二度読みたくなるものは少ない)。最初に読んだときに、いかに多くのものを見落としていたかが再読のときに判って、とても面白い。そして、『幸せではないが、もういい』は、たぶん空白の小説である。空白というのは、何かと何かの間にできるものだ。この間隔が広がったり縮んだりするのが、この小説の運動である。息子が母の死の報に接して、飛行機や自動車に乗って帰ってくることや、母の村のコミュニティでのつきあいのあれこれ、母と父の喧嘩の様子など、総てがこの空白のつめ方のヴァリエーションである。
  • 空白を作る足場である、何かと何かが見えなくなってしまって、「もうずっと前から単なる宙を前進していたことに気づく、アニメーションのキャラクターのように……」なっていることを、母の死について書くことで、一片のエクリチュールとして蚕のように吐き出したのが、この「物語」の書き手である息子であるが、もちろんそれはそれ以上の確固たる安心や足場を彼に与えるものではない。しかし、それは、それ以下のものでもない。糸屑のようなものが握りしめられている。