• 草野なつかの『王国(あるいはその家について)』を「HENRI」の配信でようやく見る。何度も何度もおなじ台詞が、別のショットのフォームで読まれることによって、その差異が聴き分けられるようになってくる。その気持ちよさに浸りながら、やがて見えてくるのは、人と人がたまたま蚕の糸のように時間をかけて編んでくるまっている固有の領域と、その領域が被る変化や、領域の境界でせめぎ合う諸々の力どもが角逐する静かで激しい闘争のありさまである。やがて、諸力の衝突の結果が、私たちが犯罪と呼びならわしているものとして立ち現れてくると、当然それを裁く国家という権力もまた登場してくることになる。ここで『王国(あるいはその家について)』という映画は、たとえば大島渚の『絞死刑』という映画を正統に想起させるだろう。……たまたまいちばん上に積んであったジュディス・バトラーの『アセンブリ』の中にこんな一節を見つけて、この映画の短評のようだと思う。「相互依存性は幸福で有望な概念だと考えるかもしれないが、それはしばしば領土戦争や国家暴力の諸形式の条件でもある。実際、私たちが、異存の管理不可能性――それがどのような恐怖、パニック、嫌悪、暴力、支配へと導くか――について、政治のレヴェルで考えることができたかどうかはわからない。」
  • ペイパー・レイスの《The Night Chicago Died》がYouTubeで流れてくるたびに、もちろん《アルトゥロ・ウイ》を思い出す。
  • コロナで休業していた須田亜香里の復帰のインスタライブを見る。《手紙のこと》をギターで弾き語りするだーすーを見ていたら、こちらも涙が溢れてくる。流れてしまったソロライヴは外れていたので、だーすーの体調の心配とは別に、ほっとしていた自分もいたが、だーすーが楽しいのだったらそれがいちばんだったはずで、自分のヲタとしての狭量さを思い知った。
  • レベッカ・クリフォードの『ホロコースト最年少生存者たち』を読み終える。とても真面目ないい本だった。