• 雪は止んでいてすっきりと晴れている。カメラをぶら下げながら、浅草橋の西口のホテルを出て神田川柳橋を渡り、隅田川は両国橋を渡る。首都高が川の上に作られているその美に改めて感嘆しつつ両国を抜けて小名木川も渡り、清澄庭園に至り都現美に。クリスチャン・マークレーの「トランスレーティング」展から見る。レコードの溝も漫画の擬音も電動ドリルの立てる音も、それらはそこに存在することが目的されていない。溝は録音された音を再生するためにあるのであって、溝自体が発てる音が目指されるのではなく、それはスクラッチ・ノイズと呼ばれる。何かが「ズーン!」と登場するとき「ズーン!」という音が実際に鳴っている必要はなく、電動ドリルは耳を劈くギュュュュュュュンという音を発てることを目的にしている楽器ではない。フィルムとサウンドトラックが結びついているのは必然ではない。そこに存在しているが、何か別のことを存在させるために使われているものばかりを丹念に拾い集めて組み合わせ、それら自体の存在のユニークさを提出する。手話なのかダンスなのか私には判らないが盛んに動き続ける手の動作が何かを懸命に私たちに伝えているサイレントのヴィデオ《ミクスト・レヴューズ(ジャパニーズ)》で締め括られる展示は、とても穏やかな力強さに溢れていた。
  • 続けてユージーン・スタジオ「新しい海」展も見る。カンヴァスの側面を隠す(脇を処理する)画家がいる。カンヴァスの側面から覗く幾層もの絵の具の重なりなど見なくていい、真正面から絵の表面だけを見てくれればいいという作家の暗黙の主張が、私はあまり好きではない。ユージーン・スタジオの作品は、徹底して「脇を処理している」。コンセプトは明快で、美術の歴史やエピソードをきちんと踏まえており、提出されている作品はシンプルで、美しいと言ってよい。しかし、ドビュッシーピアノ曲を宙で弾くふたりのピアニストを黒白映像で捉えたヴィデオでは、ドビュッシーの《夢》が実際にへッドホンから聴こえてくる。これはふたりの指が奏でているだろうドビュッシーの《夢》ではない。私たちの耳が聴いているものは、この作品の物語の丁寧な説明ではあるが、むしろ私たちがこの作品のコンセプトを理解して聴こうとしている音楽を疎外する。このひんやりとした侮蔑にも似たもの。徹底して明晰たらんとするのは、批評の拒絶でもあるだろう。侮蔑と拒絶のふるまいとしてのユージーン・スタジオの作品は、きわめて生々しくコンテンポラリーな風景として立ち上がってくる。
  • 久保田成子「Viva Video!」展も見る。ブラウン管から映像は解放されるべきではないかという思いと、しかしこの大きくてかさばるブラウン管とそれを囲う側(ガワ)としての布や木材などのオブジェもまた久保田の作品であり、それぞれはしっかりと癒着していて容易に分離し難い。《スケート選手》の放つ眩い光の煌めきを美しいと思うと同時に、恥ずかしさにも似た懐かしさも覚える。
  • 写真を撮りながら両国駅まで出て、竹橋まで出る。国立近代美術館で「民藝の一〇〇年」展を見る。四時前に着いたら券売所の前で、六時三〇分からしか入れないと言われるがネットで五時からのチケットが買える。何だそりゃと思いながら、とにかく腹が減ったのでふらふらと歩いていると神田で、もう「キッチン南海」はなく初めて「はちまき」に入って天丼を食べて美術館に戻る。柳宗悦の小柄なツイードの背広が吊るしてあるのを見ながら、やはり柳宗悦の姿勢には胡散臭さを拭うことができないが、うっかりすると「民藝」っぽいものをいいねしてしまう心根は私の中にもある。だからこの展示を見に来たのだが、会場の中はゲロが出そうなほどの人だかり。ぐるっと見て、図録を買って出る。常設に出ている好きな絵をぼおっと眺めて(いつもはそんなにいいと思わない萬鉄五郎の卒制作品を見て、初めてぱっと眼が開かれるような気持ちになった)、帰る。