- ゴダールの『映画史』の下巻を読んでいる。もちろんジガ・ヴェルトフ集団について書いた(考えた)あとだからこそ、というのはあるが、事典のような読み方をしていたときには引っかからなかったところがとても気になる。ゴダールによると、トーキー以前の無声映画を見るとは「フィルムのうえに、事物と事物の間の関係をとらえようとするもの」であり、これは「映画に特有のなにか」、すなわち「ある技術的形態をとった別のなにか」であるが、この「二つのものからなるなにか」を「人々が見ていた」ので「そのなにかは三つのものからなるなにかにかわった」のである。人々は映画を使って「なによりもまず、なにかと自分自身との関係を見ていた」のだが、これは「ものごとを言葉で表すことをやめ、ものごとを見ることを可能にする」ようになる。これが「アナーキーな形で発展して」ゆき、「次第に編集と呼ばれるようになった」のである。「サイレント映画の偉大な映画作家たち」は誰もが「編集というものを追い求めて」「きわめて強力なやり方で死に物狂いのやり方なり最も遠くまで進んだ」のである。
- 「編集のスペシャリストとされているが」エイゼンシュテインだが、彼の映画の「二つのカットの間には、ある一定の関係がある」が「それは、編集から生まれたもの」ではない。エイゼンシュテインは、「ものごとの変転を示すにあたって、自分のその視点についてのきわめて的確な考えをもち、その視点をはっきりと」「カメラのアングルというもの」として「提出するすべを知っていた」映画作家だからである、など。