- 朝から日本橋の国立文楽劇場まで出て《義経千本桜》を三部続けて見る。電車が遅れてひやひやしたがぎりぎり開幕前に飛び込む。「初段」の最後で「一度に開く千本桜」と悲劇のヒーロー義経が重ねられているのをちゃんと説明してくれるのが親切。
- 「堀川御所の段」で鶴澤友之助が出てきて弾いたが、やはり抜群にキレとパンチのある音。若さと才能がこれだという感じ。
- 「二段目」の「渡海屋・大物浦の段」は竹本綴太夫の典侍局と安徳天皇の波打ち際でのやりとりも、ほろりとするのだが、吉田玉男の遣う渡海屋銀平の人形を見ていて、今日は少し文楽の人形のことが判った気がした。実は中納言知盛である渡海屋が、手負いの身でひとり舟を漕いで「冥途の出船」、沖合の大岩の上に昇って「碇を取つて頭にかづき『さらばさらば』と声ばかり、渦巻く波に飛び入つてあへなく消えたる」のだが、険しい岩肌を昇ってゆくとき、深手を負っており、人形なので、すいすいとは昇れない。岩登りの途中で、玉男が渡海屋に向けるまなざしは「大丈夫?このまま行ける?」という確認だった。
- 人形遣いである吉田玉男が木偶を昇らせているのではない。渡海屋の人形にまず岩礁の頂に昇ろうとする意志があり、玉男はその意志を確認しつつ、途上の手助けをしているのである。渡海屋と玉男はどちらが主従であるというのではなく、一体であり、しかし一体というのは境界がないというのではなく、渡海屋の意志を十全に実現するために玉男は渡海屋の声や息を常に聴きとめて、玉男の判断によって介助をしている。ゆえに「人形は生きている」のではないか。
- 「三段目」は最初にあのブルースのギタリストみたいな竹澤團吾が出てきたが、短かったので残念。「すしやの段」は殺伐としていて面白い。文楽は人が死ぬと、すっと人形遣いが抜けて、去ってゆくので、本当に空っぽの死体になってしまうのが、ぞっとする。暴力の表現が最も生っぽい。
- 「四段目」の桐竹勘十郎と源九郎狐もすごかった。不幸な解釈と所有のもとにあった鼓が、あるべきところに落ち着くというストーリーが語られたあと、最後の宙乗りの多幸感。桜で埋め尽くすというのはしばしばとても過剰で過激な表現になる。
- ぼんやりしているだけの時間も少なくなかったが、やはりいいものを見たなあとしみじみ。歩いて難波まで出て帰る。