- ブレンデルが亡くなったとのこと。洗濯物を干す。白シャツ一枚がもう駄目になった。相米慎二の『ラブホテル』を見る。もちろん脚本は石井隆。映画を見ながら演劇的であると感じるときは、いかにも舞台っぽい空間で芝居が行われる場合(横浜の埠頭のシーン)と、俳優が既に知っていることを隠さずに行為する場合(台本があることが判る。つまりそれは繰り返しということだ。ラブホテルでの二度目のシーン)を強く感じさせるときであるのかもしれないと、ぼんやり思う。ズレながら反復される、しかもそれが決してズレず同じものが何度でも反復されるはずの映画において挑まれることに、じんとするのか。階段と鏡。速水典子がいい。この時代(1985年公開)の日本映画の都市のファッションは、いなたさはあるのだが魅力的であると思うのは、単に私がこの時代を子供として生きていて、社会が憧憬の対象であったからだろうか。2000年10月6日号の『アサヒグラフ』が古本屋から届く。ジャン=ピエール・リモザンの大島渚への手紙や、常石史子の大島渚へのインタビュと「猥褻裁判考」など非常にいい特集。
- アダム・フィリップスの『ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢』を読み終える。「死の本能」を語るところがとても面白い。「曖昧すぎてよくわからない何かが、何らかの生命を生起させた」のだが、「生命には耐え難い何かが存在する。それはもしかしたら、(フロイトの言う)意識なのかもしれない」。「意識」に気づいた生命は「自身の存在に対する病的嫌悪」を覚え、この嫌悪から脱したいという願う。これは最初のうち、すぐに叶えられた。なぜなら生命はごくシンプルな構造で、「新たに生まれてはあっけなく死ぬということを繰り返していた」からである。しかしやがて生命は「死という目標に到達する前に辿るべき迂回路がどんどん複雑なもの」に変化してしまう。すると生命は「「自分流の死に方」をしたいという望みを生じさせる」ことになり、「生物は、自分を殺しかねない危険」と「激しく対立するようになる」のである。存在驚愕とは「死の本能」なのか。
- Oギャラリーeyesで安亜沙の個展「VにはWがいる」を見る。「ダブル」は「だぶる」のである。ミクストメディアの彷徨のあとに絞り出すように提示される絵画はきわめて真摯である。古本屋に寄ってから帰る。