• 朝早くから起きていたのに結局遅刻してKY君と京都駅で待ち合わせて、地下鉄で京都市美術館まで出て「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」をみる。30分を超える映像作品が大半を占めていて、殆どのフロアをふたりで乱暴に一瞥しては通りすぎる(パンフレットをみて、すごく気になったアーノウト・ミックは残念ながら京都芸術センターでの展示だった)。映像作品ばかりなのを呪いつつ、京都市美術館という建物の空間や細部の豊かさに感服しながら。
  • 展示で、悪くないと思ったのは、笠原恵実子と王虹凱。笠原恵実子は、むしろ素晴らしかったというべきか。後者は映像をぜんぶみなかったので、作品としての勁さよりむしろ、何処も彼処も無垢な被害者面ばかりの我が国の今に蹴りを食らわせる、その視点のありように共感したと云うべきだろう。それからサイモン・フジワラ。こういうクールでモダンでゴージャスな装いの作品に遭遇すると思わず、パッと惹かれてしまうファッショでマッチョなじぶんの傾向を、苦笑しつつ再認識させられた。もちろんケントリッジは好き。倉智敬子+高橋悟と、蔡國強の展示は、そこにいる観客たちがとても愉しそう。子供づれにもウケている。こういう作品が、社会と美術の結びつきの突破口として語られるのだろうなと思う。作品そのものはどちらも大がかりだが全く大したものではない。KY君が蔡國強をみて「「鉄腕ダッシュ」的ですね」と評したのに爆笑する。そして、田中功起は、東京でみても京都でみても、本当に糞つまらない。笠原や王とはまったく違っていて、現代の藝術はちゃんと過去と向き合っているというアリバイづくりのための美術。KY君は、高嶺格がいちばんよかったという。すごく彼らしいなと思い、何だかとても愉しかった。
  • それからKUNST ARZTで迫鉄平「Fantasy Black Channel」展をみる。私が彼の作品を初めてみたアートスペースジューソーでの個展や、先日の正木晶とのふたり展「百度の鈍角」に比べると、こぢんまりとした印象を受ける。ずいぶんクールで、シュッとした仕上がりになっていて、私自身の元来の好みには合致するが、しかしこちらのそういうややもするとおざなりな眼を脅かしてくる熱には乏しい(特に映像作品にそれを感じた。ジューソーでみた《Made of Stone》があまりにも素晴らしかったためでもあるが)。ギャラリストであったり他の作家であったり、何らかの強烈な外部と鍔迫り合いながら発表するときのほうが、迫は発奮する作家なのかも知れない。千里丘での展示も愉しみ。
  • JR京都駅まで戻りやってきた新快速に飛び乗ると、そのすしづめの車内に、ju seiのふたりと、我らが「何某」の諸根君、安東君が坐っている。彼らと四ツ橋の「アオツキ書房」まで出る。中村聡一朗君の「pre-」*1の今年の秋冬服の展示に、「何某」のパフォーマンスを招聘してくれたため。会場でちょっと練習。私のパートは頭とお尻を手なおしをする。MR君やserico嬢がきてくれる。
  • 終わってから、みんなは中村君の家で泊まるとのこと。後ろ髪ひかれつつ、明日も朝から仕事なので帰路。じぶんで思っていたよりずっと疲れていたらしく、「しま」と一緒にすぐ蒲団に潜り込む。