• ラストタンゴ・イン・パリ』でベルトルッチマーロン・ブランドは、マリア・シュナイダーに知らせずに、バターを用いた性交のシークェンスを撮り、彼女は深甚なダメージを負った。にもかかわらず、この映画の彼女は素晴らしい。芸術は残酷だ、という吐き気のするツイートをみた。それはベルトルッチマーロン・ブランドたちの残酷さや愚かさであり、芸術の残酷さではない。これを、芸術そのものに起因する残酷さであるかのようにずらすことで、彼らの愚劣を突きつめる面倒くささを負わず、「芸術映画」から滴る甘い汁だけを、道学者ふうの渋面で、思う存分、しゃぶり尽くすことができるようになる。貪欲な芸術の歯車に食いちぎられた哀れなミューズの悲劇を直視するためには、銀幕から眼が離せない、というわけだ。
  • そうではない。噛み締めなければならないのは、こんな下劣な撮り方でなければ、こんなに充実したシークェンスを撮ることはできないのか、と問うことであり、それは結局、技術のことだ。芸術の残酷さなど、まったくどうでもいい。あるいは、私たちの本当のことなど、映画には本当に映るのか、と問うことだ。それは映らないなら、映画の本当は私たちの本当とは別物であるのなら、シュナイダーへの暴力は、やはりまったく不必要だったということになるだろう。
  • 私は、この映画は、ベルトルッチやブランドたちの演出というものへの信頼の乏しさにもかかわらず、七〇年代ベルトルッチの傑作のひとつだと今も思っている。これからまた見ることもあるだろうし、シュナイダーの荒れ狂う四肢や、糞野郎のひとりだろうストラーロキャメラの捉えた壁の光を、そのたび美しいと思うだろう。だが、それは断じて、芸術の残酷さゆえの照り返しなどではない。彼らの技術のすばらしさゆえなのだ。

  • 「総ての黒人が暴動を良いと思っているわけではない」と書いているのをみて、当たり前だろうと思う。そんな当然のことを日々ずっと言われているようだから暴動は起きるんだろう。火事場泥棒なんか肌の色に関係なく牢屋にぶち込んだらいいと思う。しかし、その盗みの現場で警官が駆けつけて、警官らしい仕事をすることができないでいるのは、警官が、制服の権威を笠に着て、無法な殺人を犯したからだろう。そして、その人殺しのレイシストの警官は、大手メディアは極左に操られている、私が言っていること以外は全部出鱈目だと日がな一日ツイートしている、糞が頭にぱんぱんに詰まった大統領の支持者なのだという。世代の異なる黒人たちが街頭で激昂しながら議論している動画をみた。蜂起するしかないと語る四十代の男と、俺もその隊列に加わってきたが、別の方法を探らなきゃ俺たちが殺されるんだ、しかしそれが何なのかは判らないと語る三十代の男は十代の少年の肩を掴んで、このおっさんにも俺にも見つけられなかった方法を君は見つけてくれと訴える。彼の言葉はとてつもなく真摯だが、これをデモとか暴動とか良くないよねに読み替えるカポは掃いて棄てるほどいるだろう。

  • ベルリナー・アンサンブルのアーカイヴ公開で、ハイナー・ミュラーが演出した《アルトゥロ・ウイ》を見ていると、私が子供のころ、こういうものが格好いいと思っていた演劇の匂いがぷんぷんする。すっかり演劇から遠く離れてしまったが、コロナ禍のせいであちこちの劇場がウェブで過去の舞台を見られるようにしているので、そういうのをずっとつまみ食いしている。映画よりたくさん舞台(映像)を見ている。少しだけ演劇と和解できたような気持ちがある。應典院も昨日で劇場としての役割を終えたという。
  • 渡辺麻友が引退してしまったのは、やはりじわりと心が痛い。

  • 安い古本をぼつぼつと買っている。ほぼ毎日郵便受けに封筒が届いている。持っていなかった梅本洋一の映画批評だとか十年ぐらい前のホンマタカシのムックとかサラ・コフマンとか。梅本洋一はシェローやムヌシュキンたちの演劇について書かれた『視線と劇場』が、まだぱらぱらと捲っただけだが、面白い。ペーター・シュタインの『悪霊』のイタリアでの上演の記録を見ていたら、ドストエフスキーの原作が読みたくなり、江川卓の訳の文庫本を、本棚から引っ張り出してきて、三十年ぶりぐらいに読んでいる。これまでは『白痴』がいちばんだと思っていたが、『悪霊』のほうが面白いんじゃないかと、昔は退屈だった第一部(佐藤亜紀さんにインタヴュしたとき「あのステパン氏とワルワーラ夫人の「もちゃもちゃ」が好きなんだよね」とおっしゃっていた)をとても楽しみながら、読み進めている。昔の組みなので活字が小さくて、追う眼の滑りが楽で読みやすい。今の新潮文庫ドストエフスキーは活字が大きすぎて読みづらい。

  • 朝起きると、鬱々苛々していたことはどうでもいい、というか、なるようになれば別にいいやと思えるくらいになっていたので、やはり眠って脳をすっきりさせることは大事だなと、柚子が心配していってくれることには従おうと思った。朝、ゴミを棄てに行って写真を撮る。
  • 夕方まであれこれ書き物。頼まれている批評を少し進めて、あとは過去の日記を書いている。夕食は柚子が唐揚を作ってくれた。とてもおいしい。本日は家から出ず。

  • 仕事に行く。昼飯に食べた、前任者おすすめの弁当屋の唐揚弁当がとてもまずい。
  • 最近、なぜか山下達郎の初期のアルバムをずっと聴いていた。『SPACY』とか『RIDE ON TIME』とか『For You』とか『GO AHEAD!』とか。神経を昂らせない、耳慣れしているものを聴こうとしているのかと思っていたけれど、むしろ、スタジオに引きこもって地道な作業を重ねて作られた音楽を聴くことで、この引きこもり生活の意味を見出したかったんだろうかと、考える。「外へ出るのも」だめなんだけれど*1
  • 帰宅して、夕食を食べる。柚子に「しんどそうなので、とにかく早く寝たほうがいい」と云われる。そのとおりにして、すぐに眠る。途中、雨の音で眼が醒めて、窓を閉めた以外は、ずっと寝続けて、朝の六時まで眠る。

  • 十年以上積みっぱなしにしていた、第一次安倍内閣ルポルタージュ『官邸崩壊』を読んだ。著者の上杉隆の現在の凋落ぶりもそうとうひどいが、これは面白い本だった。
  • 現在の安倍内閣は、官房副長官の事務方の人事で、第一次のときに官僚たちからそっぽを向かれたので、今度は公安・警備を渡り歩いてきた杉田和博を据えて睨みをきかせるとか、小賢しく不快な学習はしているが、名声は欲しがるけど無為無策、失敗は反省せずに隠蔽したり野党やマスコミのせいにするとか、基本的な姿勢は以前と何も変わっていないというのがよくわかって、絶望的に笑えた。
  • 安倍自身も、何も変化していないのがよく判る。演説の三分の一以上は民主党の悪口の安倍、年金記録問題は菅直人のせいにしようとする安倍、教育基本法改正の前に行ったタウンミーティングは仕込みのヤラセが連発だった安倍、議員会館の前でデモを行った教職員たちに、「あれ、先生たちでしょ?仕事もしないでおかしいよね」と文句をいう安倍、じぶんを擁護してくれないジャーナリストは全員「薄汚い勢力」だと信じる安倍。彼はずっと、全くぶれないのだ。
  • 周辺の人物たちも、第一次をそうとう引き継いでいる。在特会とつるむことになる山谷えり子DJ OZMAの紅白のパフォーマンスを「ファミリー・ハラスメントだ!」と喚き、自己喧伝ばかり得意な広報担当の世耕弘成は、米下院の「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」の対応で、わざわざ渡米して派手にしくじり、問題を大きくしてしまう。
  • 第二次安倍政権が、従軍慰安婦問題を眼の敵にして、それが歴史的事実であろうが何だろうが、頑なに頭から否定するのは、これを認めると、第一次のときの大失態が意識に浮上してきて、パニックを起こして耐えられなくなるからであり、正しい歴史認識がどうしたなんて、本当はどうでもいいはずだ。とにかく、じぶんたちのしくじりと改めて向き合う恐怖から眼を逸らしたいので、従軍慰安婦問題も消えてほしいと思っているだけなのだ。
  • 当番の日なのに、総理直々の電話に出ないというミスをする脇役で、今井尚哉も出てくる。
  • 上杉は、「何をやっても同じだ、と気付いた時、安倍は、驚くほど頑固な独自路線を邁進する」と書く。これも今も変わらない。「何をやっても同じ」なら、どんな不祥事が起きても閣僚は罷免しないし、責任はとらないし、公文書も破棄するし、記憶も書き換えていい。野党やマスコミに対して、口から出まかせの的外れな反論をしてもいいのだ。
  • 安倍は2015年4月29日、ホワイトハウスでのオバマとの夕食会で、『ハウス・オブ・カード』のハードコアなファンであると告白した。続けて「しかし、このドラマを仲間の副総理に見せることはないでしょう」といって、笑いを誘ったという。
  • なぜ安倍はこのドラマを他の閣僚に見せないのか? 
  • もういちど掴んだ権力の座から追われるハウ・トゥになってはいけないからだろうか?
  • そうではないだろう。権謀術数を巡らしたクーデタなど、あらゆる失敗を否認して抑圧することで仲間や組織を支えるクリーンなこの政権下において、起こるわけがない。ならば、安倍が側近に『ハウス・オブ・カード』を見せない理由は、私邸での夫婦ふたりきりの生活を想像させることと、いつも見えない透明な誰かと喋っているフランク・アンダーウッドとじぶんを重ねられることを拒むからだろう。
  • 安倍は、いつもプロンプターに左右を囲まれて記者会見をする。このとき彼は、目の前にある透明なガラスの板だけを見つめていて、眼の前の記者たちではなく、プロンプターに向かって話しかけている。じぶんにとって都合の悪い現実から隔ててくれるガラスの壁の鏡像とのやりとりこそが、安倍にとっての対話なのだ。
  • 「安倍には得体の知れないモノに対して、第三者に強い姿勢を見せることで、自らの恐れを隠すという習性があった」と上杉は書く。国会中継で、安倍が野党議員に対して、子供のような野次を飛ばすのは、ガラスの壁の向こうの国民に向かって「強い姿勢をみせて、自らの恐れを隠すという習性」の表れなのだ。安倍が、われら臣民から愛される理由がよく判る。
  • 安倍は今、アベノマスクと囃されていることを心底嫌がっているという。
  • 眼に見えないウイルスを防ぐことはおろか、顔をきちんと覆い隠すことすらできない糞役立たずのマスクとじぶんが同一視されること。安全な場所で守られながら粋がりたい安倍にとって、防御なしで、現実に曝されていること以上の緊急事態はないだろう。その恐怖は、察するに余りある。