17年後のランペドゥーサ

  • 昨晩、寝る前に、ふと、部屋の隅に積んである文庫本の山の中からランペドゥーサの『山猫』を引っ張りだし、最初の四行を読んだ。ちなみに、こうだ。

〈いま、そしてわれらが死ぬときに、アーメン〉いつもの祈りがおわった。半時間のあいだ、公爵のおだやかな声が、栄ある、悲痛な儀式の世界を呼びもどした。半時間のあいだ、他の声も入り乱れて、うねるようなざわめきをつくりだし、そこに、愛、純潔、死などという、ただならぬことばの黄金の花々を咲かせた。

  • すると、この本を買った中学生になったばかりのじぶん(御丁寧に、父親が彫ってくれた蔵書印まで捺してある)には、いきなり冒頭から、この小説がまるっきり読めていなかったことが判ってしまった。たったこれだけの文章の中に、カトリックの官能性から、ドン・ファブリツィオほどの男でも、現在ではもう、たった30分しかそういう高貴な世界を顕現させることはできない悲しみとか諦念が、ズバリと描かれている。この程度のことさえ読めていなかったのだから、そりゃあ途中でほうり出したのも、むべなるかな。なので今朝、通勤鞄の中に『魔の山』の代わりにランペドゥーサを放り込み、そのまま読み始める。