ソクーロフの『太陽』を観る

ドストエフスキーが姪のソフィアに宛てた手紙で、「自分が描きたいのはポジチヴに美しい人間です」と述べたことはよく知られている。「ポジチヴに」とは妙な言い方だが、ロシア語では、たとえば「美しい魂」というと、「センチメンタルなお人好し」、つまり「ネガチヴに美しい人間」になってしまう。ところで、ドストエフスキーがそのような「ポジチヴに美しい人間」とみなすのは、言うまでもなく、キリストである。

  • 大東亜戦争の末期から、いわゆる「人間宣言」に至る昭和帝の数年を描いた、アレクサンドル・ソクーロフの映画『太陽』*1を、遂に試写で観る*2
  • まず、昭和帝を演じるイッセー尾形が素晴らしい。喜劇俳優としての彼の総てがこの映画に注ぎ込まれている。最後にほんの少し出てくるだけなのだが、皇后を演じる桃井かおりが意外なくらい良かった。昭和帝の一挙手一投足におろおろする、佐野史郎を始めとする昭和帝の周辺の人物たちもまあ悪くない。
  • さて、それではこれは、われわれの知る昭和帝の映画なのかと云えば、そうであるし、そうでないとも云えるように私には思われた。
  • ドストエフスキームソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』などで馴染みがあろうが、ロシアの文芸にはユロージヴイ(聖痴愚)と云う存在が頻繁に現われる。この映画に於ける昭和帝は、寧ろ、そう云うふうな感じなのだ。
  • ユロージヴイとは、真実の神の言葉を伝える存在であり、白痴であり乞食であり狂人であり道化であり不具者であり聖者である。嘲られつつ、崇拝されていて、じぶんが裸になることも厭わずひとを助け、或るときは雷のような怒りを発する。如何なる常識や世間のしがらみにも囚われず、ただただ、神の言葉に忠実である。この映画では、聖なる白痴としての、「ポジチヴに美しい」昭和帝の姿が、丁寧に描かれる。
  • 口の中が臭いとぶつぶつ独語する昭和帝。唇と頬をもずもずと動かし、その動きとはズレながら言葉を発する昭和帝*3。自室でそっと、集めた欧米の映画俳優たちのブロマイドを食い入るように眺め、皇后と皇太子の写真に唇を寄せる昭和帝。「チャーリー!」と呼びかける占領軍の報道班の兵士たちのカメラの前で、薔薇に顔を寄せてその香りを嗅ぎ、ソフト帽をひょこっと持ち上げて、チャップリンの真似でおどけてみせる昭和帝。GHQから贈られてきたハーシーの板チョコレートの包みを囲んで短いコントを繰り広げる侍従たちの中に割って入り、パン!と掌を打ち鳴らして「チョコレートおしまい!」と叫ぶ昭和帝(まさに「御聖断」である)。怪異な容貌のマッカーサーの前に出て、勧められたハバナ産の葉巻を子どものように吸い*4ナマズの姿の絶対的な美しさ(それは世界の神秘であり神の奇蹟そのものに他ならない)を憑かれたように滔々と語り、そのとても大切な話を、世界の神秘などからは無縁な、ごく平凡な軍人であるマッカーサーに遮られると顔いっぱいに大変な不満を表す昭和帝。マッカーサーが部屋を出て独りになると、部屋中の蝋燭を消して回り、それをマッカーサーが扉の陰から覗き見ているのを知ってか知らずか、悠然とワルツを踊り出す昭和帝。明治大帝が皇居の上空で見たと云う極光(オーロラ)のような不思議な光のことを学者に訊ね、それは絶対に極光ではないと答える学者に納得できず何度も問いを繰り返す昭和帝。皇后が疎開先から帰ってきて、ふたりきりで向き合って座ると、やがて小鳥のようにちょんちょんと頭を動かして、照れながら皇后の肩に顔をうずめる昭和帝。侍従の前を、激しい怒りで輝かんばかりの皇后に腕を引かれて、銀幕から退場してゆく昭和帝*5。恩寵のような雪景色の廃墟の東京に、ぼんやりとラジオから流れる昭和帝の声。それはまさに神の声のようである……。
  • だからこの映画は寧ろ、日本史の歴史的な事実とは異なり、神を僭称していた人がすっきりと人に戻るまでを描いた映画なのではない。苦行を経て、人が遂に神になるまでを描いた映画なのである。
  • ロシアと云う文化の土壌から「キャラ」として、昭和帝を見事に切り抜いて捉えてみせた映画が『太陽』であったとするなら、では、果たしてわれわれは、紋切型のそれではない、みずからの文化に根ざした昭和帝の映画を撮ることができるのか?*6 
  • いわゆる「菊のタブー」がそれを撮らせないのではなく、現代の日本では既に、天皇への誠実な関心が失われているだけなのではないか? ましてや昭和帝なんぞもうどうでもいいと思われているのではないか。私にはそう云うふうに思えて仕方がない。

*1:http://taiyo-movie.com/

*2:忸怩たることだが、関西は文化の到来がいろいろと遅いのだ。こちらでの公開は9月23日から十三の第七藝術劇場にて。

*3:この癖は確か、晩年に固有のものだったはずではないか。壮年期の昭和帝の描写にこれを取り入れたのは、やはり、この眼鏡を掛けた小さな男が聖別された存在であることを視覚的に表現するためではないか。そしてもちろん、滑稽味を与えるためでもあろう。ユロージヴイは、聖なるものであるが故に、滑稽さも同時に兼ね備えているからだ。先の江川卓の『ドストエフスキー』には、こうある。「ソフィアに宛てた手紙で、ドストエフスキーは「美しい人間」を描くことの困難さを訴え、もっとも成功したドン・キホーテにおいてさえ、その「美しさ」は、彼の「滑稽さ」に由来すると述べた」。

*4:最初、火が点かないと昭和帝が云うと、マッカーサーがじぶんの葉巻の火口を、昭和帝が咥えているそれに押し付けて火を点ける。昭和帝とマッカーサーの間接キス! これを観た腐女子の方々が『太陽』本を作ってくださることを、希望します(失笑)。

*5:このあたりの映像と演技、大変に高潔かつ滑稽でとても良い。

*6:嘗て笠原和夫の脚本で『昭和の天皇』が企画されたが結局流れた。