本をだらだらと読むのが好き

われわれは、まさにワーグナーを参照することによって、フロイトのいう死の欲動(Todestrieb)は、自己消滅に対する、いかなる緊張もない無生物的な状態への回帰に対する渇望とはいっさい関係がない、ということを理解できるようになる。死の欲動は、死に安らぎを見出すことを望むワーグナーの主人公に備わっているのではない。それとは逆に、死の欲動は、死ぬこととは正反対のもの----死を迎えられないまま続く永遠の生そのものの状態につけられた名前、罪と苦痛にさいなまれながら、いつまでもひたすら彷徨を続けざるをえないという恐るべき運命に対してつけられた名前----である。したがって、ワーグナー的主人公が終局でむかえる死(オランダ人、ヴォータン、トリスタン、アムフォルタスの死)は、彼らが死の欲動の支配から解放される瞬間なのである。トリスタンが第三幕において絶望的な状態にあるのは、死への恐怖からではない。イゾルデがいなければ彼は死ぬことができず、永遠の渇望状態にとどまることになってしまうからなのだ。彼は死を可能なものにするために、イゾルデの到着を待ちこがれる。彼が恐れるのは、イゾルデを見ないまま死ぬこと(恋する者によくありがちな不満)ではなく、むしろ彼女を欠いたまま終わりなき生を送ることなのである。したがって、ここでフロイトのいう死の欲動パラドックスがはっきりする。死の欲動とは、その語が予想させる意味とは正反対のことに対して、不死ということが精神分析の内部に現れる事態に対して、生の不気味な過剰性に対して、生と死、生成と頽廃の(生物学的な)循環をこえて存在しつづける不死の衝動に対してフロイトがつけた名前なのである。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「単なる生」ではないということである。つまり、人間は単に生きているのではなく、日常的な事物の成り行きを脱線させる剰余に強い愛着をいだきながら、生を過剰に享楽したいという欲望に取り憑かれているのである。

  • 再び菅野昭正の『ステファヌ・マラルメ』に取り掛かる。通勤鞄には些か重すぎて大きすぎる本なのだが、面白いので仕方がない。