ケネス・ブラナーの『ハムレット』とオペラの演出。

  • 夕方から出掛けて、柚子とインド料理を食べる。
  • 四時間と云う上映時間に付き合うための時間をひねり出すのが難しく、気になっていたが敬遠していたケネス・ブラナーの『ハムレット*1をようやく観る。さっさと観れば良かった。
  • この『ハムレット』は、シェイクスピアの台詞をそっくりそのままひと言も洩らさず用いて撮られている。時代設定は、ビスマルクナポレオン三世の頃のふう。『ゼンダ城の虜』の頃であるとも云って良いだろうか。第一次大戦のメガ・デスを経る以前、ギリギリ「個人」なるものの懊悩が意味を持ち得る絶妙の時代を設定している。
  • 非常にスピーディで、細かいカット割りがなされるが、それがシェイクスピアの台詞の快速のリズムにぴたっと合っていて、四時間弱の映画だが、見事にダレるところがない。シェイクスピアと『モンティ・パイソン』が混ぜ物なしの地続きだと云うのが、嫌と云うほど良く判る。
  • 映画は殆ど宮殿(ロケ地はチャーチルの生家でもあるブレナム宮)のなかで進んでゆくのだが、この城のなかの美術が良い。宮殿には、あちこちに隠し扉がしつらえてあるのだ。ポローニアス殺しのあと、ハムレットは衛兵たちに追われながら、まるでエッシャーの絵の中の出来事のように、騙し絵じみた壁や本棚のあいだをすり抜けながら、疾走してゆくのだ。実に見事な場面のひとつだった。
  • ケネス・ブラナーハムレットケイト・ウィンスレットのオフィーリアに始まり、どの配役もとても良い。素晴らしい映画だった。
  • 私が初めて実演に接したオペラが、1989年6月、佐藤功太郎の指揮と、西澤敬一による恐ろしく黴臭く鈍感な演出で接した『タンホイザー』だった。先日まで小学生だったガキにでも充分に判るほど、その音楽は停滞して退屈で、オペラを聴く喜びは些かも感じられなかった。そして、長い間、私はその上演を小澤征爾による指揮だったと誤って記憶していた。
  • 帰宅後、ロバート・カーセンが演出し、小澤征爾が指揮した『タンホイザー』の上演を抜粋してNHKの「芸術劇場」で放送していたのを、ちょこちょこと観る。ウィーン国立歌劇場音楽監督が振るワーグナーとは、残念ながら思えないものだったが、些か聴けるようになっていたのは、ロバート・カーセンの演出が良かったからに他ならない。
  • しかし、ミクシィなどで驚かされるのは、カーセン程度の演出で、台本無視だとか何だのと文句を云う頭の固い年寄りたちの多いことである。彼らの云うオーソドックスだとかリアルな演出と云うのは、結局メトロポリタン歌劇場みたいなそれである。何のことはない、それは彼らが見慣れた演出のスタイルであって、総ては彼らにとってのオーソドックスでしかないのだ。つまり彼らは、ヴェルディプッチーニを擁護していると主張しながら、実際のところは、それらの芸術が持つ潜在的な可能性を制限し、じぶんたちの慣れ親しんだ枠のなかにオペラを押し込めようとしているに過ぎない。精神の企てに於いて、老いて頑迷になることは害毒である。このひとたちは、『タンホイザー』の何を観ているのだろうか? 歌合戦が愉しいだけなら、わざわざワーグナーなど観なければいい。
  • 夜中に、NHKで謎の生き物が映った*2