『エレファント』、『ジェリー』、『ラストデイズ』、そして『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』!

  • 朝起きてガス・ヴァン・サントの『エレファント』の続きを観る。鮮やかな色彩と、ひたすらなワンカット(撮影はハリス・サヴィデス。見事)。些かおセンチだが、画面とは無関係に、その背後に存在するものやこと、内面などに頼らず、映画を作ろうとしているガス・ヴァン・サントもやはり象徴界の衰微を引き受ける現代の映画作家だ。だから、この映画は、ベートーヴェンとウルトラ・ヴァイオレンスに就いて思いを馳せることはできても、コロンバイン高校の事件を、何も思い出させない。そう云えば小学生のとき私も「こいつらは殺すリスト」を小さな紙片に作り、同級生の名前をコリコリ書いたり消したりしたものだった。なかなか悪くない。
  • 続けてガス・ヴァン・サントの『ジェリー』を観る。歩くこと、時折座り、火を焚き、車に乗る以外は、ひたすら歩く。その歩くさまを、ひたすらワンカットで捉える。男ふたりが何処から来て、何処へ行くのか、ふたりの関係は、ふたりはどんな男なのか、そんなことは一切描かれない。『エレファント』で行われていたことが此処ではさらに徹底されている。象徴界の砂漠へようこそ!? 男ふたりが砂漠を彷徨するだけで一時間半以上の映画をキチンと構築してみせるだけでも大したものだ。これは文句なしに傑作。
  • そのままガス・ヴァン・サントの『ラストデイズ』も観る。前二作と比較すると、些か凡庸な出来。これもまた、画面を見ている限りでは、些かもカート・コバーンと関係がないのがよい。カスパー・ハウザーのことを、ふと思い出す。
  • ガス・ヴァン・サントの映画には強烈なドイツ・ロマン主義の匂いを感じる。例えば『エレファント』のように『トリスタンとイゾルデ』を演出することも、『ジェリー』のように『パルジファル』を演出することも、『ラストデイズ』のように『神々の黄昏』を演出することもできるだろう。いや、もしかしたら既にあるかも。
  • 柚子と待ち合わせて、関西では本日から公開のポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド*1をシネ・リーブル神戸に見に行く。冒頭。黒字に白抜きの、古風な書体でタイトルが出る。荒野と空を捉えたショット。トーン・クラスター風味の劇伴。たったこれだけで、既に私は今、傑作を目の前にしていると確信させる映画だった。
  • この映画の素材となったアプトン・シンクレアの小説(この新訳ブームの時代に、約80年前の翻訳をさらっと復活させる平凡社、日本語への信頼が窺えて、なかなかやる)は『石油!』と云う題なのだが、この映画は「石油」を巡る映画であると云うよりも、寧ろ「!」そのものの映画なのだ。
  • 両手の指が怖ろしく長いダニエル・デイ=ルイス(靴職人を辞めて映画に戻ってきてくれて本当に良かった)が演じるこの映画の主人公はプレインヴュー氏である。Plain-view、遮る物のない視界であり、ひねりのない見解であり、パンフで柳下毅一郎も指摘している通り、謂わば、見たまンま氏である。19世紀末から世界大恐慌の頃までの、現代のアメリカを準備したアメリカを舞台に描かれるこの映画は、しかし全く現代の、象徴界の衰微した後の映画(カエルが降り注いだ後の映画と云ってもいい)であり、画面の奥に隠された読まれるべき秘密や内面など何処にもない。だからプレインヴュー氏とは何者かと問うならば、まさに、見たまンまなのである。つまり、何かに取り憑かれたように地面やら何やらを掘り、掘り返した穴から黒々とした重い液体を溢れさせることに全身全霊をかけている男なのである。そして、その情熱のありようは、殆どイタリア・オペラの登場人物の如き怪物的なものである。みずからを「砂漠に置き忘れられた孤児」として疎外した男の壮年期から晩年までを描くことで、ポール・トーマス・アンダーソンはまるで、此処から再びアメリカ映画そのものを始めなおそうとしているかのようですらある。
  • ところで、私はガキの頃、掘削のボーリングと十柱戯のボーリングは何の関係があるのかと思っていたが、やがて、そもそもそれらは綴りが違っていて(前者はboring、後者はbowling)、関係がないのだと知ったが、そんなことはなかった。大アリだったのだ! それらはこの映画で、「!」で貫かれていたのだった。
  • 俳優、撮影(PTA組の常連ロバート・エルスウィット)、美術(テレンス・マリック組のジャック・フィスク)……総てが素晴らしい映画だった。不満があるとすれば、上映時間だ。あと二時間ぐらい長くても最高だったと思う。大満足だった。こんな傑作が古典ではなく新作として出てくるのだ。映画とは成るほど、まだまだ非常に若い藝術だ。映画館の売店で原作を買い、遅い夕食を買って、ふたりで帰宅する。