猫とおでん。

  • 起きだしてきて郵便受けを覗くと注文していた古本が届いている。この瞬間は、とても気分がいい。飯を食いながら、岩城宏之黛敏郎が、武満徹が、一柳慧が、高橋悠治が、湯浅譲二が対談しているのを読む。
  • 昼過ぎには、自転車を漕いでアルバイトへ出る。
  • しかたなく、予定より二時間はやく終わり、陽が落ちてしばらくすると、もう家だった。
  • 電熱ストーブの前で寛いでいる「しま」の前足をとって、手の中に乗せて、私の爪切りで、パチパチと爪を切る。珍しく、少しも抵抗しないのである。柚子が帰ってきた音がすると、「しま」は私の背中から飛び降りて、ピュウと階段を駆け下り、玄関まで彼女を迎えに出る。
  • そう云えば先日、MR君の部屋で皆で駄弁りながら、自殺しようとしているひとを止めるための言葉をどのように持つことができるか、できないのか、と云うようなことをMR君が云いだして、私は、誰かが「跳んでしまう」ときは、どうしたって「跳んでしまう」もので、それの最後の瞬間を止めることは、生の側にいるものには絶対にできないと考えていると前置きして、人間の本質はずっとずっと昔から些かも変化していない。そうでなければ過去の人間の営みに触れて、共感したり感動したりすることはできない筈。本質が何も変わらないなら、過去、夥しいひとたちが、自殺を思いとどまることで新しい生を開いたことは、いま自殺しようとしているひとにも、時間を経ると、やっぱり当て嵌まる可能性がかなり大きいと、推量してもよいのではないか。だったら、死なないほうがいいじゃないかと云うことはできる、と云うようなことを述べた。しかし、じゃあ歴史とか過去の藝術とか人間なんて俺は知らねぇよって奴にはどう説得するんです?と問われて、そんな奴はさっさと跳んじまえばいいんだとか何とか乱暴なことを云った記憶があるのだが、つらくなったら猫や犬か何かを飼えばいいのだ。引っかかれたり噛みつかれたり、時折ムッとすることもあるけれど、しかし私のような自意識と逡巡で、常にぐるぐる混乱しているような人間には、徹底した「しま」の裏切りのなさと自意識のなさには、ほんとうに慰められる。柚子と「しま」がいなくなったら、私はどうすればいいのか、いつもほんとうに判らない。
  • 柚子とおでんを食べる。たまたま点けていたTVでPerfumeが「love the world」を踊っていたが、ダンスをきちんと捉えられないキャメラワークで、ガッカリだった。
  • 風呂を洗い、洗濯機を廻し、夜のベランダに洗濯物を干す。